横山 やすし ダウンタウン。 ダウンタウンのごっつええ感じ【やすしくん】 全編まとめ

ダウンタウン 横山 やすし エピソード

横山 やすし ダウンタウン

Contents• 出会い 1980年代前半に 「お笑い第2世代」と言われた漫才ブームが陰りを見せ始めていた時。 吉本興業は 「NSC」という新人タレント養成所を開校。 その「NSC」に一期生として入校したのが「浜田雅功」と「松本人志」である。 小学生の頃からの幼馴染である「浜ちゃん」と「松っちゃん」。 当時は 「競艇選手」になろうと思っていた浜ちゃんであったが、競艇の試験にはあえなく落選。。 試験に落ちたばかりの浜ちゃんが、偶然 「NSC1期生募集」と書かれたポスターを見つけ、松っちゃんを誘ったというのは有名な話。 そしてそんな二人がNSC入学時に出会うのが、当時NSC開校時の担当社員であり、現在の 「吉本興業・代表取締役会長」である 「大崎洋」氏である。 大崎氏は若き日の 「才能ある無名なダウンタウン」に可能性を感じ、二人の兄貴分として マネージメント・プロデュースを担当。 なかなか売れない時期もありながらもその可能性は開花し、「松っちゃん」の独特なテンポから繰り出される 即興での天才的なボケ、そこに 切れ味鋭く突き刺さるような「浜ちゃん」のツッコミというダウンタウンの圧倒的な 「面白さ」は認められ、そこから二人が世に出るまでにはそう時間はかからなかった。 そして当時、大阪での勢いは凄まじく、人気絶頂だった頃にダウンタウンを 東京へと進出させ、 全国区に押し上げた「大崎氏」の功績は大きい。 第3世代• 横山やすし・西川きよし• ツービート• 紳助・竜介• オール阪神・巨人• 大平サブロー・シロー• 明石家さんま• タモリ• 関根勤• 小堺一機 などの、お笑い 「第2世代」と言われる1970年代後半〜1980年台前半に漫才ブームを牽引した芸人たち。 その時代の漫才ブームが終焉を迎え、当時の漫才師はコンビを解散してピンで活動したりとその活躍のフィールドが変わり始めていた。 そんな時、 「紳助・竜介」の島田紳助はたまたま舞台袖でダウンタウンの漫才を目の当たりにし、即座に解散を決断。 解散会見では「オール阪神・巨人。 サブロー・シロー。 ダウンタウンには勝てない。 」と、当時まだ無名であったダウンタウンの名前を出して解散した。 この時の 「島田紳助」の先見の明はあまりに凄すぎる。 漫才ブームの名残のまま、 「たけし・さんま・タモリ」とBIG3と呼ばれる3人がテレビ界を席巻。 そこに最初に割って入ったのが 「とんねるず」であった。 その後を追うようにしてすぐに、 「ウッチャン・ナンチャン」・「ダウンタウン」が彼らを凌ぐぐらいの人気者になる。 そんな彼ら3組を筆頭に、「さまぁ〜ず」、「ホンジャマカ」、「東野幸治」、「今田耕司」、「出川哲朗」などの芸人たちが 「第3世代」と呼ばれている。 東京進出 本格的に 「東京」に拠点を移したダウンタウン。 そこからトップへと登っていく彼らのパワーとスピードは物凄かった。 1989年に 「笑っていいとも! 」の火曜日レギュラーとして出演が決まると、同年には 「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!」の放送が開始され、毎週日曜日の20時には伝説的な番組 「ダウンタウンのごっつええ感じ」がスタートし、最高視聴率が20%を超えるなど、超人気番組に。 その後も 「ダウンタウンDX」、 「HEY! HEY! HEY! MUSIC CHAMP」の放送が開始されるなど、あらゆるフィールドへと活躍の場を広げた。 浜ちゃんがCDを出せば ミリオンセラーを記録、松っちゃんが本を出せば ベストセラーと。 名実共に日本のお笑い界、芸能界、日本中に 「ダウンタウン旋風」を巻き起こし、ダウンタウンというバカでかい山を日本のど真ん中に作り上げ、頂点には 「浜ちゃん・松っちゃん」という大きな旗が刺さっているのである。 現在 時代は変わり、今では日々色々なメディアからあらゆる芸人たちが画面に出てくる。 「次は俺たちだ!」と意気込み、売れるために必死にもがく。 そんな彼らも、ダウンタウンが生み出した 笑いのエッセンス・影響を存分に浴びている。 いまだに尊敬する芸人はと聞かれると「ダウンタウン」、「松本さんです!!」と答える芸人さんを見かけるが、笑いの一時代を築いた 「ダウンタウン」、そして笑いに対して常にストイックに向き合って形にしてきた 「松本人志」、 「浜田雅功」という男の功績や生き様は賛否両論はあったとしても、非常に偉大で今後も語り継がれていくのだろうと思う。 life is freedom….

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ダウンタウン 横山 やすし エピソード

横山 やすし ダウンタウン

来歴 [ ] 3月、専攻卒業。 新聞記者志望だったが新聞社の入社試験に落ち、大学卒業後吉本興業に入社。 この時、父親は「お笑いの会社入るとは、罰当たり物やな」と落胆していたという。 担当スタッフを経て、製作部に配属となりのを8年半つとめ、、のマネージャーを務めた後、1980年に東京事務所(現在は東京本社)所長に異動となり、部下だったと共に漫才ブームを築いた。 1988年大阪本社へ戻って製作部次長に就くと、劇団との交流もきっかけとなり、低迷していたを再生させる。 1994年に取締役製作部長、4月にに昇進し、2002年10月に退社。 フリーとして「木村政雄の事務所(「の」は)」を設立し、独立した。 元顧問、代表取締役主宰、、元理事、フリーマガジン5L(ファイブエル)編集長なども務める。 妻は元ので長男と長女がいる。 妻とは「」で妻がアシスタントで出演した時に知り合った。 著書 [ ]• 笑いの経済学 吉本興業・感動産業への道(2000年、集英社)• 吉本興業から学んだ「人間判断力」(2002年、講談社)• 五十代からは、捨てて勝つ 自分株式会社をつくろう (2003年、PHP)• 「人をつくる」という仕事(2003年、青春出版社)• 35歳革命 (2005年、大和書房)• やすし・きよしと過ごした日々 マネージャーが見た波瀾万丈回想記 (2005年、文藝春秋)• 50歳力(2005年、大和書房)• プロに訊け!-明日が見えた瞬間 (2006年、丸善)• 客観力-自分の才能をマネジメントする方法 (2008年、祥伝社)• 内田さんに聞いてみた 「正しいオヤジ」になる方法(内田樹との共著、2013年、宝島社) 過去の出演番組 [ ]• (文化放送)• (TBSテレビ)• 事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または。 ( 2012年8月)• 自称エグゼクティブフリーター。 が吉本から独立して東京で活躍したいと考えた時に、懸命に説得し慰留させた。 寛平本人は吉本の東京事務所があるのを知らなかったという。 結局、寛平は東京吉本に移籍し、東京や関西以外の国内外での芸能活動の足がかりを得ることになった。 が東京でのレギュラー番組を降ろされ、落ち込んでいた時に「みんなが頑張っとるからこそ、逆にローカルチャンピオンになるべきや。 くよくよしたってしゃあない。 むしろ、ローカルチャンピオンで頑張ったらええ」と慰めた。 八方はこれを機に立ち直った。 吉本在籍時、一時低迷していたを再生させ、更にはを一躍全国区にのし上げ、更には劇場の興行システムを改編した反面、会社の方針に従わないベテラン芸人や若手芸人を大胆にリストラしたり、不祥事を起こした芸人を厳罰な措置を取るなど、企業人としての冷酷な一面を見せている。 特にが吉本興業から解除()された時に、やすしへの契約解除通告を行ったのも、当時専務だったの署名を入れた契約解除通知書を記者会見で読み上げたのも木村本人だった。 その時の記者会見で記者達から「堪忍袋の緒が切れたのか? 」の問いに「そうですね。 我々のフォローもとっくに超えている。 これ以上騒ぎを起こされたら、会社の姿勢も疑われますし、責任も問われますから。 」とコメントした。 その手法は後に部下のに受け継がれた。 なお、大崎が処置を下した芸人には(、一旦解雇して後に復帰)、(事実上引退)がいる。 一方で、2000年ごろに出演した「」()において、「さんややすしさんのような方は、もう(芸能界には)現れないでしょう。 世間も許さないでしょうし」などと厳しい意見を言う中にも、やすしに関しては「もうちょっと、世間の常識を知っていてくれたら…。 」との思いがあった事を語り、自身の著書では「いまでも私は横山やすしのファンだがもう復帰はあり得ないし、して欲しくない。 」と厳しい心境を述べた。 再生プロジェクトを起こした発端は放送作家のの誘いで劇団の芝居を見て「よし、これで行ったろ!きっと旨く成功する。 」と思い付いたのがきっかけとなり、そして再生する事が出来た。 吉本在籍時、劇場の興行システムを10日ごとから7日ごとに変更することを、会長だったに直訴したところ「かまわん。 やりなさい」と一発返事で承認された事がある。 が「」でライト兄弟として出演し、横山やすしを激怒させ、やすしに説教された後に「あれは横山流の漫才に対する価値観であって、そこから外れてるから悪いのではない。 」と慰めた。 「」()を当時の部下の大崎洋と企画し、ダウンタウンを番組で一躍人気者に上昇させ、ダウンタウンが名実ともに大阪で天下を獲り、東京進出の足掛けを作った影の功労者でもある。 1996年頃に(当時)などがバラエティ番組で活躍して脅威になった事から、吉本の新入社員に対して「中居君に負けない芸人作り」をするようを進言していた時期もあった。 以前はのを持っていなかったために乗るかやなどで通勤していたが、2009年8月に家族4人で北海道に行き、旅館に宿泊しながら運転免許を取得した。 木村政雄を演じた俳優 [ ]•

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「松本人志」と「浜田雅功」。「ダウンタウン」が天下を取るまでの成り立ち。

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横山やすしのプロフィール 本名 :木村雄二 生年月日:1944年3月18日 没年月日:1996年1月21日 出生地 :高知県宿毛市沖の島弘瀬 出身地 :大阪府堺市(現在の堺区) 身長 :163cm 血液型 :B型 横山やすしさんは、1966年に西川きよしさんと結成した漫才コンビ「やすしきよし」で国民的人気を博した伝説的漫才師です。 マシンガンのように矢継ぎ早に展開する巧みな話芸で観客の爆笑をとめどなく誘い、天才と評される一方で、酒癖の悪さから、無免許運転や飲酒運転、傷害事件、二日酔いによる番組ドタキャンなど、度々不祥事を起こした事で、1989年に所属していた吉本興業から解雇されます。 その後は、芸能界への本格復帰も叶わず、1996年に51歳の若さで寂しくこの世をさりました。 しかし、横山やすしさんの強烈な個性と、その破天荒な生き様は多くの人々に愛され、関西漫才界の歴史を代表するカリスマとして、現在も伝説的に語り継がれています。 今回は、そんな横山やすしさんに焦点を当てます。 横山やすしの生い立ちと経歴 横山やすしの誕生から漫才師になるまで 横山やすしさんは、太平洋戦争中の1944年3月18日、高知県宿毛市沖の島の弘瀬という場所で誕生しました。 体重2キロ二みたいない未熟児だったそうです。 父親は沖の島に巡業に来た旅芸人で、母親は同地の旅館で仲居として働いていた女性で、婚外子でした。 横山やすしさんは生後3ヶ月で、高知県に疎開してきていた木村家に養子に出され、戦争終了後は大阪府堺市へと移住しそこで育てられました。 堺市立旭中学校へと進学した横山やすしさんは、同級生がラジオ番組の歌合戦で合格した事に刺激を受けて素人参加型のラジオ番組「漫才教室」に出演し、それをきっかけにしてプロの漫才師を志すようになります。 中学卒業後、横山やすしさんは「松竹新演芸(現在の松竹芸能)」に入社。 漫才作家の秋田實さんに弟子入りして修行を積みました。 そこで横山やすしさんは「堺伸スケ」という芸名を名乗って同級生と漫才コンビ「堺伸スケ・正スケ」を結成して漫才師デビューを果たします。 当時大阪市にあった松竹芸能運営の劇場「角座」で、初舞台を踏みますが、その2年後の1961年にコンビは解散してしまいます。 横山ノックに弟子入りし「横山やすし」の芸名を授かる その後、横山やすしさんは、当時の人気漫才師・横山ノックさんに弟子入りする事になり、これを機に「横山やすし」の芸名を与えられ、同時に吉本興業へと移籍。 その後、横山やすしさんは何度も漫才コンビを結成しますが、熱心すぎる横山やすしさんと相方の間に温度差が生じて毎回コンビは解散となり、「コンビ別れの名人」という不名誉なあだ名で呼ばれるようになります。 伝説の漫才コンビ「やすしきよし」結成へ コンビ解散を繰り返し、一時は漫才師廃業を考えた横山やすしさんでしたが、そんな折に、浪曲漫才コンビ「中山礼子・八多恵太」の2人に、吉本新喜劇の役者だった西川きよしさんとコンビを組むことを勧められます。 当初はコンビ結成を周囲に反対された2人でしたが、1966年に漫才コンビ「やすしきよし」を結成。 独特なテンポでボケとツッコミが次々と入れ替わる「型破り漫才」がウケ、結成からわずか1年足らずで「第2回上方漫才大賞」で新人賞を獲得。 これをきっかけにして「やすしきよし」は当時爆発的に普及しつつあったテレビに頻繁に出演するようになり、瞬く間に国民的な人気を獲得。 結成わずか5年足らずの1970年には「第5回上方漫才大賞」で大賞を獲得し、名実ともに日本一の漫才コンビへと躍進する事になりました。 なお、1969年11月には、横山やすしさんの長男の木村一八さんが誕生しています。 人気絶頂となるも不祥事を繰り返しレギュラーを次々と降板 「やすしきよし」として人気絶頂を向けた横山やすしさんでしたが、この頃から、その破天荒すぎる行動によって度々不祥事を起こすようになります。 1970年には、タクシーに乗車した際に、無理やり運転を代わらせてタクシーを走行させ、運転手への傷害と無免許運転で起訴され、2年4ヶ月の謹慎処分を受けます。 1973年春に芸能界復帰を果たし、その年に最初の妻と離婚し、1975年に3歳年下の一般女性、木村啓子さんと再婚。 この妻・啓子さんとの間には、横山やすしさんにとって第3子となる次女・光さん(漫才コンビ「さゆみ・ひかり」の木村ひかりさん)が1980年10月19日に誕生しています。 1977年4月には、またしてもタクシー運転手とトラブルを起こし、差別的な暴言を吐いた上、タクシーの車体に蹴りを入れるなどして、運転手から訴えられ、民事裁判で10万円の慰謝料支払いを命じられています。 1982年、横山やすしさんは生放送の情報バラエティ番組「久米宏のTVスクランブル」にコメンテーターとしてレギュラー起用されますが、なんとこの頃から酒に酔った状態でテレビ出演するようになり、放送中に共演者に暴言を吐いたり、放送禁止用語を連発したり、時には「黙秘権」を主張して一切喋らなくなったり、放送中にトイレに行ったり、観客に話しかけたりと問題行動を連発します。 そして、1984年11月、飛行機に乗り遅れて生放送に穴を開けたのがトドメとなり番組を降板させられ、吉本興業からも無期限の謹慎処分を受けてしまいます。 さらに、その翌年の1988年には、二日酔いを理由にレギュラーだったクイズトーク番組「三枝やすし興奮テレビ」をドタキャンし、これも降板。 以降、同番組は「三枝きよし興奮テレビ」へとタイトルが変更されています。 息子・木村一八の傷害事件をかばった挙句自らも不祥事を起こし解雇へ 1988年11月、今度は横山やすしさんの息子で、俳優として芸能界デビューしていた木村一八さんが、タクシーの運転手に暴行を働き重傷を負わせ逮捕される大事件を起こします。 マスコミの取材を受けた横山やすしさんは、当初事件の重大性を認識しておらず、「息子を甘やかしすぎたのでは?」とのレポーターからの質問に対し「おい、ねぇちゃん!俺は厳しく教育してるぞ」と反論「男は喧嘩するくらいで丁度ええ!」と、息子・木村一八さんの行動を正当化するような発言をします。 しかし、実際には木村一八さんが暴行を働いたタクシー運転手には何の落ち度もなく、直前に別のタクシーに乗車拒否を受けた木村一八さんが、次に停車したタクシーの車体に一方的に八つ当たりのように蹴りを入れ、驚いて降りてきた運転手にも仲間達と共に殴る蹴るの暴行を加え、障害が残るほどの重体に陥らせたという、極めて悪質な事件でした。 後に、事件の詳細を知った横山やすしさんは謝罪し、自ら責任を取る形で無期限謹慎を申し入れています。 1989年3月に復帰したものの、翌4月に飲酒状態で車を運転してバイクを相手に人身事故を起こします。 事故後の会見で横山やすしさんは、「わざとやったわけじゃないのでどうぞ宜しくお願いします。 」と軽いノリでマスコミに受け答えしますが、再三にわたって不祥事を起こされた吉本興業は、ついに堪忍袋の緒が切れる形で、横山やすしさんに解雇を通達したのでした。 これによって、横山やすしさんは芸能界の華やかな舞台から退場する事となったのでした。 横山やすしの悲惨な晩年 吉本興業から解雇処分を受けた後、横山やすしさんは悲惨な晩年を送っています。 芸能界から干された形になった横山やすしさんは、収入が全くなくなり、家計は嫁の啓子さんがNHK集金のパートタイマーなどで働き支えました。 1992年、内田裕也さん主演、宇崎竜童監督の映画「魚からダイオキシン!! 」にヨコヤマ役で出演し芸能界に復帰しますが、メジャーなテレビの世界には戻れず、「ミナミの帝王」シリーズの第1作目「トイチの萬田銀次郎」など、Vシネマの世界へと活動の場を移しています。 同年の7月には、右翼団体「風の会」から、第16回参議院議員通常選挙に比例区で出馬しますが落選。 落選後のインタビューで横山やすしさんが言い放った「国民がアホや!」の言葉は流行語になり、その人気の健在ぶりを示しますが、不祥事を繰り返した横山やすしさんを使うテレビ局はなく、華やかな世界に戻る事は叶いませんでした。 この選挙直後の8月、横山やすしさんは何者かから暴行を受けて重傷を負い緊急入院。 この影響で一時は失語症になるなどしています。 この時の犯人は捕まっておらず、選挙がらみの恨みとも、横山やすしさんが人妻相手に不倫をしており、その相手の夫から報復を受けたとも噂されています。 1993年、横山やすしさんは妻の啓子さんと共に、コメディ界の大物・大村崑さんの自宅を訪れ「これからは夫婦で漫才をしたい」と相談しますが、大村崑さんは「まずは君が元気でいる事を世間に知らせるのが先だ」と諭し、「やすしを囲む会」を企画します。 この会には150人ほどが集まったものの、肝心の芸能関係者や、相方の西川きよしさんはじめ、かつての芸人仲間は、ほとんど誰も来ない寂しいものとなり、大村崑さんは後の横山やすしさんの葬儀の場で「あの時(やすしを囲む会)は応援せずに、今になって」と怒りを露わにしています。 1995年7月、横山やすしさんは、京都府八幡市の石清水八幡宮で開催された太鼓まつりにゲスト出演し、久々に大衆の前に姿を見せましたが、当時50歳とは思えないほど、体は老け込んでやつれてふらつき、まるで高齢者のようであったと、観覧した人々に衝撃を与えました。 そして、それから間も無くの1996年1月、横山やすしさんは51歳の生涯を閉じます。 横山やすしの最期と死因 横山やすしさんは1996年1月21日の夜、大阪府摂津市の自宅で意識を失っているところを妻の啓子さんに発見されます。 発見された時にはすでに心臓と呼吸が停止しており、緊急搬送された病院で死亡が確認されています。 横山やすしさんの死因は「アルコール性肝硬変」でした。 晩年の横山やすしさんは、まるで水のように、浴びるように酒を飲んでおり、1986年にはアルコール依存症および、重度の慢性肝炎との診断を受けており、医者からは酒をやめなければ10年以内に死亡すると警告を受けていました。 しかし、横山やすしさんは医者の警告を無視して酒を飲み続け、死の前日にも大量のビールを飲んで吐き出し、妻の啓子さんに「ちょっと調子がおかしいから明日病院に行かなあかん」と話していたそうです。 横山やすしは晩年、暴力団「山口組」幹部の世話になっていた? 悲惨な晩年を送った横山やすしさんでしたが、2019年、週刊新潮の取材によって横山やすしさんがその最後の数年間を、指定暴力団「山口組」の幹部(当時)の世話になっていた事が明らかにされました。 1992年から1993年頃に、当時、山口組中野会若頭補佐だった竹垣悟さんは、直系の親分だった山口組若頭補佐(当時)の中野太郎さんから「やすしを使ったってくれへんか?」と横山やすしさんの面倒を見るように頼まれたのだそうです。 元々、横山やすしさんのファンだったという竹垣悟さんはこれを承諾し、営業(今話題の闇営業)を世話したり、横山やすしさんが訪れるたびに5万円から10万円程度の小遣いを渡したりと色々と生活の面倒を見ていたようです。 また、晩年は多額の借金で首が回らなくなっていた横山やすしさんが、借金取りに対し裏社会の大物だった竹垣悟さんの名前を出せるようにと、竹垣悟さんは1994年に横山やすしさんと兄弟盃を交わす事までしています。 晩年の横山やすしさんは、山口組系の幹部を頼りなんとか糊口をしのいでいたようです。 横山やすしさんは、自身が司会を務めていた演芸番組「ザ・テレビ演芸」で、今やお笑い界の超大物となったお笑いコンビ「ダウンタウン」の2人を公開説教しています。 当時、ダウンタウンの2人は「ライト兄弟」のコンビ名で出演し、彼らのウリである尖った漫才を披露して会場を沸かせましたが、これに対して横山やすしさんが痛烈な批判を展開。 ダウンタウンの2人はこの時の漫才で当時社会問題になっていた「家庭内暴力」を取り上げ、「親なんて本気出したらいつでも殺せる」「おとんとか先生を直接殴ったら問題になるので、藁人形で釘打つ」といった極めて過激な内容の漫才を展開しました。 このダウンタウンの漫才を横山やすしさんは、「あんたら2人は悪質な笑い」「こんなんテレビ出るような漫才とちゃう」と痛烈に批判し、「ライト兄弟」というコンビ名にまで「航空ファンにまで迷惑をかける」とケチをつけました。 前述の通り、横山やすしさんとダウンタウンの2人には因縁があったため、報復的に揶揄しているのでは?と、この「やすしくん」に対しての批判的意見も少なからずあり、さらに、横山やすしさんがセスナ機から「日本一の漫才師死ぬ!」と言って飛び降りるコントを放送した直後に、横山やすしさんが本当に急逝したために問題化し、このコントは打ち切りになっています。 その中でも、1980年にセスナ機を購入した時のエピソードは伝説として語られています。 息子の木村一八さんによれば、その日横山やすしさんが突然、当時中学2年生だった一八さんに「今からアメリカに飛行機を買いに行くから見届けろ」とアメリカへ連れて行き、購入に立ち会わせたのだそうです。 横山やすしさんは、7000万円を現金で用意するとそのまま渡米、購入交渉時には日本語でまくし立て、強引に1500万円も値引きさせたのだそうです。 ただ、別の筋からは、横山やすしさんは、頭金の5000円だけを支払ってあとは踏み倒したというエピソードも語られているため、どちらの話が真実かは不明です。 セスナ機に関する伝説としては、タレントの島田洋七さんがセスナ機に乗せてもらった際、横山やすしさんに「忙しいのによく免許取れましたね」と尋ねると「免許?そんなもんあるかい!」と言い放ったというエピソードが知られています。 もっとも、横山やすしさんは操縦はしていたものの、もう1人正式なパイロットが乗っており、離着陸などはそのパイロットが担当していたと言う事なので事故は起こらなかったようです。 若い頃、一時、競艇選手を夢見たものの視力が規定に達しなかったためその道を諦めた横山やすしさんでしたが、漫才師として成功したのちに特例でボート選手のライセンスを交付され、自らボートを購入し、私財を投入してボートレースチーム「横山レーシング・チーム」を結成しています。 自らもボートを駆りアマチュアのボーレースに出場し、「全日本K400選手権大会」で優勝するなどの実績も残されています。 横山やすしさんの葬式に参列した、中学時代からの親友で、競艇のスター選手の野中和夫さんは弔辞で、「今度俺がそっちへ来たらお前と一緒に走ろう!古いエンジンも持ってきたる!」と語りました。 横山やすしの名言集 その破天荒な生き様で多くの人々の心を魅了した横山やすしさんは、数多くの名言を残されています。 その名言のいくつかを紹介します。 断るんも仕事のうちやで? 子供たちには高い理想を持ち、理想に溺れることなくして自分のやりたいことをやってほしいと思うし、もし俺たちが必要る いる ときは声さえかけてくれればいつどこへでも出陣する用意は出来ているから、安心して伸びのびとやれ。 奥サン!旦那の帰りが遅いのやったら、そうツノ立てンと、冬なら熱いうどん、夏なら冷やっこいそうめん、用意して迎えたりーな。 男なンて、ちょろいもンやで、ほンま。 男は喧嘩するぐらいが丁度いい。 最近のマスコミは、片手落ちの過保護報道や。 もう、つっぱるの、やめよか。 破天荒な行動で人々を楽しませた横山やすしさんらしい名言ばかりです。 ただ、横山やすしさんはファンの期待を裏切らないために、わざとこうした破天荒なキャラクターを演じていたと言われています。 その命を蝕んだ酒についても、実は本当は酒が弱く、「芸人なら酒を飲んでいなければ舐められる」との想いから無理をして飲酒を続けていたとも言われています。 破天荒な行動の裏に、本当は弱く繊細で優しい姿があったからこそ、横山やすしさんは当時の人々に愛されたのでしょう。 まとめ 今回は、昭和の時代を象徴する伝説の漫才師・横山やすしさんについてまとめてみました。 横山やすしさんは、天才漫才師として人気を集め一斉を風靡し、一時代を築き上げましたが、その一方で、その破天荒すぎる言動で度々世間を騒がせ、起こした不祥事の数は2回や3回では済みません。 その度重なる不祥事の結果、吉本興業を解雇されその晩年は日の当たらない寂しいものでした。 ただ、その個性にあふれた魅力的なキャラクターがあったからこそ、横山やすしさんはその時代の人々に愛されました。 現在でも横山やすしさんの生き様は人々の心に刻まれており、これからも伝説として永遠に語り継がれて行くことでしょう。

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