岩倉 具視 使節 団。 岩倉具視

5分でわかる岩倉使節団!目的、成果、ビスマルクとの関係は?関連本も紹介

岩倉 具視 使節 団

生涯 [ ] 出生から若年期 [ ] ・の次男としてに生誕。 母はの娘・吉子。 は 周丸(かねまる)であったが、容姿や言動に公家らしさがなく異彩を放っていたため、公家の子女達の間では「 岩吉」と呼ばれた。 朝廷に仕える儒学者・に入門。 伏原は岩倉を「大器の人物」と見抜き、への養子縁組を推薦したという。 9年()8月8日、の養子となり、伏原によって具視の名を選定される。 10月28日叙爵し、12月11日に元服して昇殿を許された。 翌年から朝廷に出仕し、100俵の役料を受けた。 岩倉家はの家格を有するものの、から江戸時代に分家したであるため、当主が叙任される位階・官職は高くなかった。 また代々伝わる家業も特になかったので、家計は大多数の堂上家同様に裕福ではなかったという。 6年()1月に・へ歌道入門するが、これが下級公家にすぎない岩倉が朝廷首脳に発言する大きな転機となる。 朝廷改革の意見書を政通に提出し、積立金をの拡大・改革に用い、人材の育成と実力主義による登用を主張した。 公家社会は身分が厳しく、家格のみで官位の昇進まで固定されていた。 大多数の下級公家は朝議に出席できる可能性も薄かった。 聴取した鷹司は意見書に首肯したものの、即答は避けたとされる。 八十八卿列参事件 [ ] 5年()1月、・がの勅許を得るため上京。 関白・は勅許を与えるべきと主張したが、これに対して多くの公卿・公家から批判をされた。 岩倉も条約調印に反対の立場であり、とともに反九条派の公家達を結集させ、3月12日には公卿88人で参内して抗議した。 九条尚忠は病と称して参内を辞退した。 しかし、岩倉は九条邸を訪問して面会を申し込んだものの、同家の家臣たちは病を理由に拒否したが、面会できるまで動かなかった岩倉に対し、九条は明日返答する旨を岩倉に伝えた。 岩倉が九条邸を退去したのは午後10時を過ぎていたという(いわゆる「」)。 3月20日、堀田正睦は小御所に呼ばれてに拝謁したが、そのとき天皇は口頭で「後患が測りがたいと群臣が主張しているので・諸大名で再応衆議したうえで今一度言上するように」と伝える。 群臣とは岩倉ら反対派公卿のことで、岩倉らの反対によって勅許は与えられなかった。 岩倉による初めての政治運動であり、勝利であった。 列参から2日後の3月14日、政治意見書『神州万歳堅策』を孝明天皇に提出している。 その内容は、• 日米和親条約には反対(開港場所は一か所にすべきであり、開港場所10里以内の自由移動・キリスト教布教の許可はあたえるべきでなかった)• 条約を拒否することで日米戦争になった際の防衛政策・戦時財政政策 などを記している。 しかし一方で単純攘夷は否定し、• 相手国の形成風習産物を知るために欧米各国に使節の派遣を主張する。 米国は将来的には同盟国になる可能性がある。 国内一致防御が必要だから徳川家には改易しないことを伝え、思し召しに心服させるべき。 として、そのためやなどの外様雄藩と組んで幕府と対決する事態になってはならないとしている。 この時点では薩摩藩への期待がほとんど見られなかったことがわかる。 安政の大獄 [ ] 安政5年(1858年)6月19日、・が独断でを締結。 27日、老中奉書でこれを知った孝明天皇は激怒。 井伊は続いてオランダ、ロシア、イギリスと次々に不平等条約を締結。 さらに抗議した前主・や主・(春嶽)らを7月5日に謹慎処分に処した。 孝明天皇は8月8日に水戸藩に対して井伊を糾弾するよう勅令を下した()。 このため、幕府は10月18日に水戸藩士・を打首にするなど、尊攘派や一橋派に対する大弾圧()を発動した。 岩倉は大獄が皇室や公家にまで拡大し、朝幕関係が悪化することを危惧していた。 そのため、・や・などと会談し、彼らに天皇の考えを伝え、朝廷と幕府の対立は国家の大過である旨を説いた。 この後、岩倉と酒井は意気投合して親しくなり、岩倉自身は幕府寄りの姿勢をとっている。 和宮降嫁 [ ] 安政7年()3月3日にで井伊直弼が暗殺された後、安政の大獄は収束して派が幕府内で盛り返した。 4月12日には四老中連署で皇妹・の将軍・へのを希望する書簡が京都所司代より九条尚忠に提出された。 孝明天皇はすでにに輿入れが決定済みであるとして拒否し、和宮自身も条約破棄を暗に求める返事をした。 岩倉の意見書でも知名度の高い『和宮御降嫁に関する上申書』はこのときに天皇に提出された。 内容は、天皇が岩倉を召して諮問した際に答えたものである。 この中で岩倉は、今回の降嫁を幕府が持ち掛けてきたのは、自らの権威が地に落ちて人心が離れていることを幕府が認識しているからであり、朝廷の威光によって幕府が自らの権威を粉飾する狙いがある、と分析し、• 皇国の危機を救うためには、朝廷の下で人心を取り戻し、世論公論に基づいた政治を行わねばならないが、この収復は急いではならない。 急げば内乱となる。 今は「公武一和」を天下に示すべき。 政治的決定は朝廷、その執行は幕府があたるという体制を構築すべきである。 朝廷の決定事項として「条約の引き戻し(通商条約の破棄)」がある。 今回の縁組は、幕府がそれを実行するならば特別に許すべき。 と結論した。 孝明天皇は6月20日に条約破棄と攘夷を条件に和宮降嫁を認める旨を九条尚忠を通じて京都所司代に伝えた。 幕府としてはもはや和宮降嫁ぐらいしか打開策が無い手詰まり状態だったため、無茶だと知りつつ、ついに7月4日、四老中連署により「7年から10年以内に外交交渉・場合によっては武力をもって破約攘夷を決行する」と確約するにいたった。 元年()10月20日、和宮はを出て江戸へ下向し、岩倉もこれに随行することとなった。 の回顧録によると岩倉が和宮下向の支度を万事手配したという。 また出発前には孝明天皇が随行する岩倉とを小座敷に呼び出して勅書を与え、老中にこの書状の中のことを問いただすよう命じた。 すなわち岩倉は単なる随行員ではなく勅使として江戸へ下向することとなった。 下級公家の岩倉が軽んじられず老中と対等に議論できるようにとの天皇の配慮であったという。 11月26日、岩倉はでやといった老中と面会。 ここで岩倉は孝明天皇の勅書の質問はもちろん、それとは別に幕府が和宮を利用して廃帝を企んでいるという江戸市中の噂の真偽を問うている。 老中らは下々の捏造であると回答したが、そのような噂が市中で立ったこと自体不徳として陳謝し、老中連署の書状で二度とないことを誓うと答えた。 しかし岩倉は譲らず、誓書を出すなら将軍・家茂の直筆で提出せよと命じた。 家康以来、将軍が誓書を書かされるなどということは無かったのでさすがに老中たちはその場での即答を避けたが、結局3日後に将軍・家茂が誓書を書くことが岩倉に伝えられた。 もちろん岩倉としても意味もなくこのような言いがかりをつけていたわけではなく、朝廷権力の高揚のためであった。 家茂が岩倉に提出した誓書は以下の通り。 先年来、度々容易ならざる讒説、叡言に達し、今後御譲位など重き内勅の趣、老中より具に承り驚愕せしめ候、家茂をはじめ諸臣に至迄、決して右様の心底無之条、叡慮を安めらるべく候、委細は老中より千種・岩倉え可申入候、誠惶謹言 十二月十三日 家茂 謹上 12月14日、岩倉は意気揚々と江戸をたち、24日には京都へと戻った。 しかし先立つ11日に実母の吉子(の娘)が死去したため、喪に服するため参内を遠慮し、将軍誓書はかわりに千種有文が12月25日に孝明天皇に提出している。 孝明天皇はこれに大変喜び、岩倉の復帰後の2月11日には岩倉を召して「勲功の段感悦す」とまでいってその功労をねぎらった。 失脚 [ ] 文久元年(1861年)には主・が・を通じて「」を孝明天皇に献策した。 朝廷主導の公武合体、現実的開国、将来的攘夷を唱えたこの書は天皇から高い評価を受け、天皇は長州藩にこの書を幕府にも伝え公武周旋にあたるよう命じた。 幕府にとっても悪い策ではなかったので12月30日には徳川家茂からも慶親の江戸出府を待って長州藩に公武周旋役を任せる内定が下った。 そして文久2年()4月7日には孝明天皇が諸臣に対して先に幕府老中が連署で提出した10年後の攘夷決行をおこなう誓書を公表し、もし約束の期日が来ても幕府が行動を起こさないなら朕みずからが公家と大名を率いてを実施し破約攘夷を行う、とまで宣言した。 さらに4月10日には先の長州藩への公武周旋任命に危機感を募らせた薩摩藩のが和宮降嫁や安政の大獄の弾圧のせいで天朝が危機に瀕しているとして入京してきた。 久光は天皇から京都の守護を命じられ、京都所司代は完全に有名無実化した。 その後、天皇は安政の大獄で処分された人々の復帰を幕府に命じ、幕府はこれを受けて7月にを、松平春嶽をとして復帰させることを余儀なくされた。 7月6日には長州藩において毛利慶親が孝明天皇の悲願破約攘夷を実現させるために尽力・周旋をするという攘夷の立場を明確に藩論と定めると家臣たちに言い渡した。 こうしためまぐるしい情勢の中、尊王攘夷運動は各地で高まりを見せるようになった。 岩倉は一貫して朝廷権威の高揚に努めていたのだが、結果的には和宮降嫁に賛成し、さらに京都所司代の酒井忠義と親しくしていたことなどから派の志士たちからとみなされるようになっていった。 そして尊攘派は岩倉を排斥しようと朝廷に圧力をかけるようになる。 正親町三条実愛は、岩倉にまず孝明天皇の近習をやめるよう勧告し、岩倉はこれに従って7月24日に近習職を辞した。 しかし岩倉排斥の動きはもはや止まらず、8月16日には、など13名の公卿が連名で岩倉具視・・千種有文・・・の6人を幕府にこびへつらう「四奸二嬪」として弾劾する文書を関白・に提出するにいたる。 いよいよ孝明天皇にまで親幕派と疑われ、8月20日に蟄居処分、さらに辞官と出家を申し出るよう命じられてしまう。 岩倉は逆らわず辞官して出家。 朝廷を去った。 蟄居時代 [ ] しかし士・ら攘夷強行論者は岩倉への処分が甘いと主張し、遠島に処されるべきだったとまで書く。 さらに岩倉は京都から退去しなければ首を四条河原に晒すといった天誅の予告文まで受けた。 そのため邸で蟄居するわけにもいかなくなり、まず西賀茂の に身を隠した。 岩倉は僧体になって霊源寺へ逃げ込んだ9月13日の日記に「無念切歯に絶えず」と書いている。 翌日の日記にも「無念の次第やるかたなし」「今度の事件、実に夢とも現とも申し難き次第、如何なる宿縁のしからしむるところか、毛頭合点がまいらず」と悔しさをつづり続けている。 9月15日、養父・具慶の甥が住職をしている洛西のに移り住んだ。 9月26日、近衛忠煕は九条・久我・岩倉らは洛中に住んではならぬと追放令を発令。 岩倉が移住先に困っていたところ、10月4日に長男のが洛北の岩倉村に住居を用意してくれたのでそこへ移った。 以降、洛中への帰参が許される3年()11月までこの地で5年間も蟄居生活を送ることとなる。 元年()7月19日に(蛤御門の変)が発生し、京都の攘夷強行論者が一掃されたが、赦免はなく、引き続き岩倉村で暮らした。 しかし薩摩藩や朝廷内の同志たちが再び岩倉のもとへ訪れるようになり、慶応元年()の秋ごろからは岩倉も『叢裡鳴虫』をはじめ政治意見書を再び書くなど、朝廷や薩摩藩の同志に送るなどの活動を行うようになった。 また、この間に薩摩藩の動向に呼応する形で従来の公武合体派だった立場を倒幕派へ変更した。 慶応2年()6月7日からはじまったは長州軍の決死の反攻で幕府軍の苦戦が続く中、7月18日には主・、主・、主・ら外様雄藩が孝明天皇に征長軍解体の建白書を提出。 20日には薩摩藩からも解兵の建白書が出された。 さらに同日には征長軍の大将・徳川家茂が薨去した。 しかし孝明天皇・・ら朝廷首脳はなおも征長軍の続行を主張する。 岩倉も薩摩藩と同様、解兵および長州藩との和解に賛成であり、かつての勤王の功績を重んじて禁門の変は寛大な処置で許すべきと主張した。 そして朝廷首脳部、特に中川宮を徳川慶喜との報告を鵜呑みにして天下の大勢を見ない人物と評して激しく批判した。 岩倉は朝廷の悪執政を正すため再び列参を画策。 この意見にが賛同し、薩摩藩のとらが工作に当たった。 8月30日、朝廷改革(中川宮・二条斉敬らの追放、近衛忠煕の関白再任、幽閉状態の公卿たちの赦免など)を掲げて中御門経之はじめ二十二卿が連なって参内した(岩倉は参内禁止中)。 これをみて中川宮・二条斉敬はともに職を辞した。 天皇は却下したが、2人はかつての九条のような吊るしあげを食らうと考えたのか無理やり辞職してしまった。 天皇は突然側近を一気に2人も失ったことに激怒し、中御門ら列参に参加した公卿らに閉門を命じた()。 なお長州との戦争自体は、8月1日に幕府軍が小倉での戦いに敗戦、8月16日に徳川慶喜が参内して戦況報告し、もはや万策尽きて勝機が無くなったことを朝廷首脳部に報告したため、やむなく解兵され、8月20日に家茂薨去が公表され、9月2日に長州藩と幕府が休戦協定を結んで終了している。 12月25日、孝明天皇がにより崩御。 政治混乱期の突然の崩御であったためこの崩御には古くから毒殺説があり、岩倉が容疑者として疑われたが、俗説の域を出ていない。 慶応3年()1月9日、が15歳にして即位。 には二条斉敬が就任し、再び中川宮との二頭体制となった。 新帝即位に伴う大赦により1月15日と25日に文久3年()の政変・禁門の変にかかわった者が赦免され、九条尚忠はこの際に赦免されたが、岩倉・久我・千種・富小路ら列参関係の公卿は赦免されず、11月に赦免された。 なおこの間、10月14日に二条城でが行われ、翌15日には二条斉敬から徳川慶喜に対して奉還の勅許が与えられ、公式には朝廷に政権が返上された。 王政復古 [ ] 年少の天皇、慶喜の言いなりの朝廷首脳部、徳川家の所領を背景に引き続き実質的権力を握ることになるであろう慶喜から実権を奪うため、岩倉は薩摩の、土佐の、公卿の中御門経之・・正親町三条実愛らとともに慶喜に辞官納地をさせる計画に参加した。 慶応3年(1867年)12月8日から翌9日にかけて中川宮・二条斉敬ら朝廷首脳部、有栖川宮熾仁親王・・ら皇族、・・・・ら大名を交えた朝議がおこなわれた(事前に岩倉たちの計画をつかんでいた慶喜は病と称して欠席)。 12月9日(1月3日)に入ってから岩倉らが参内し、新政府人事と慶喜の処分を求める案を奏上した。 王政復古案の合意は容易であったが、新政府の人事案をめぐっては松平春嶽と大久保利通が論争となる。 最終的には有栖川宮を政府首班のとし、松平春嶽・山内容堂らを、岩倉や大久保らをとする新政府が樹立される。 慶喜の処遇についても山内容堂や松平春嶽から意見が出され、小御所において岩倉や大久保と再び激論となった。 しかし最後には岩倉らが春嶽・容堂を論破して慶喜に辞官納地返上を命じることが決まる()。 松平春嶽と徳川慶勝(議定)が使者として慶喜のもとへ派遣され、新政府の決定を慶喜に通告した。 通告を受けて慶喜は辞官と領地の返納を謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。 実際この通告を受けて「幕府」の旗本や会津藩の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じ、13日には政府に恭順の意思を示すために京都のを出てへ退去している。 春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁に報告する。 しかし大阪城に入ったあとも慶喜からは連絡がなかった。 23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。 参与の大久保は慶喜の裏切りが始まったと判断し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、松平春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。 岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。 この命令を受けて慶喜は承知の誓書を政府に提出した。 また28日には岩倉が参与から議定へと昇進。 名実ともに朝廷首脳部の一人となった。 しかし元年()に入り、慶喜が突然薩摩征伐を名目に事実上京都占領を目的とした出兵を開始した()。 新政府に緊張が走り、1月3日に緊急会議が招集された。 参与の大久保は旧幕府軍の入京は新政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。 会議は紛糾したが、議定となったばかりの岩倉が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。 新政府は徳川慶喜征討軍の大将軍に仁和寺宮嘉彰親王を任じ、親王は錦旗を掲げてに進軍。 ここを徳川追討の本陣に定めた。 錦旗の登場に各藩次々と政府に応援を派遣し、旧幕府軍は家康から「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」とまで言われた徳川家の友邦、のにも寝返られて砲撃を受け敗走。 6日夜、徳川慶喜は側近数名とともにひそかに江戸へ逃れた。 予想以上の成果であり、徳川征伐に反対した松平春嶽の政府内での発言力は弱まり、賛成した岩倉の発言力が大きく増すこととなった。 1月7日、在京の諸大名が小御所へ集められ、岩倉がその場で大名たちに「帰国したい者は帰国せよ。 大阪に行きたい者は行け。 勤王の意思がある者はその旨明日までに誓書にせよ」と一喝すると、諸大名たちは岩倉の迫力に震えあがり、全員が誓書を提出した。 岩倉具視「招魂社を建設する事」。 1月10日、曖昧になっていた徳川領の問題は、今回の反逆によって没収を明確に宣言され、そのすべてが天朝の御料となることが布告された。 さらに1月17日、政府の首脳部が分担方式の内閣制となり、総裁を首班にして内国事務、外国事務、陸海軍事務、会計事務、刑法事務、制度事務、神祇事務の七閣僚が置かれることとなった。 岩倉は海陸軍事務と会計事務という最も重要なセクションを任された。 名目上の行政の責任者は総裁であるが、その地位にある熾仁親王は自ら政治的権力を振るうことを嫌がったので、議定や参与たちの会議によって決したことをほとんどを裁可した。 よってこの人事をもって日本に実質的に岩倉を首班とする政権が誕生したといえる。 のちには、時の殉国者と()の殉国者を併せて慰霊するため、(の前身)の設立を決定した。 その境内にはも設置され、神事として主催のが催され、優秀な軍馬は払下げられるなどして、競馬産業の発展と軍資金の確保をもたらした。 日本政府首脳へ [ ] 閏4月21日には政府機構の再編が行われ、の政治制度が参考にされ、部・部・部にわかれた型政府へ移行した。 岩倉はこのうち行政官の中のという国内行政全般と宮中の庶務を監督する役職に就任。 三条実美とともに二人体制での就任だったが、三条は徳川家の処分の全権を任されてを従えて江戸へ出ていたので岩倉が実質的な首班であった。 岩倉は就任早々宮中改革として公家に学問の時間を与えるため、公家の宿直(御所での24時間勤仕)の制度を廃止。 また御所内の庶務にかかる人数も大幅に削減した。 これらが旧公家層の非難の的になっているが、御一新()のためやり遂げねばならないと江戸にいる三条にあてた手紙につづっている。 後、江戸が平定されると江戸市民から天皇江戸行幸の期待が高まり、8月には明治天皇が東京(江戸を改称)を行幸することが発表された。 岩倉以下、中山忠能(議定)・(参与)・(議定)ら政府閣僚メンバーも天皇に供奉した。 10月13日、(旧江戸城)へ天皇が入城し、ここを新と定めた。 しかし京都市民の感情に配慮して明治2年()1月に明治天皇は京都に還幸している。 岩倉も供奉して京都へ戻ったが、岩倉は京都に戻った後に突然病を理由に補相の辞職を求めた。 大久保や木戸は慰留したが、岩倉の意思は固く1月17日には辞職してしまった。 版籍奉還と廃藩置県 [ ] 岩倉の辞任後、政府ではが検討されるようになった。 岩倉は版籍奉還に関する意見書を政府に提出し、この中で藩主達は中央政府から任命された行政官()ということにし、当分は知事に領地を管理させる。 しかし支配の実態は確実に中央政府へ移し、知事個人には土地および人民は私有物ではないことを周知徹底させ、藩政と家政も明確に区分させ、混同させないようにすべきとした。 6月の版籍奉還後、再び行政組織の再編があり、古代の官制「」を模した体制となった。 すなわち政府首班を左右大臣・・で構成し、その下の行政組織として・・・・・の六省がおかれた。 三条実美が行政責任者のとなり、岩倉はその補佐役の大納言に就任した。 参議には大久保利通・・ら旧武士階級が就任した。 政治家たる旧公家と官僚たる旧武士層がより一体化し、版籍奉還に対応できる強力な中央集権国家を企図した体制であった。 明治3年()、岩倉は意見書「建国策」を記した。 そこでは、• 国家経論の根本を定む可き事• 政府のを明かにして其計算を国民に知らしむ可き事• 郡県の体を大成せんために暫時其方針を示す可き事• 及び卒に農工商の業に就くことを勧誘す可き事• 藩知事れん下()に在住せしむ可き事• 天下の民治の規則を一定して民部省の総括に帰せしむ可き事• 天下の財源を一定して大蔵省の総括に帰せしむ可き事• 天下の兵制を一定して兵部省の総括に帰せしむ可き事• 天下の刑罰及び人民訴訟の法を一定して刑部省の総括に帰せしむ可き事• 天下に中小学校を設置して大学に隷属せしむ可き事 などの項目を掲げて、これらが封建主義でない近代国家の原則であるとし、すなわち民政・財源・兵制・訴訟法・教育の全国統一化を主張している。 明治4年()2月、三条邸に岩倉具視・大久保利通・西郷隆盛・木戸孝允・ら政府首脳が集まり、に備えて藩の指揮権に属さない天皇直属のをつくる必要があるということで一致。 薩摩・長州・土佐の三藩に兵を出すよう命じ、8,000人の親兵が急遽組織された。 7月14日には明治天皇が全知事を皇居に呼び出し、廃藩置県を宣告した。 政府の予想に反して全ての知事が賛同し、懸念された抵抗や反抗はまったく見られず、この日藩はひとつ残らず日本から消滅した。 所領を失った「大名」たちは全員東京へ召集され、としての責務を果たしていくことになる。 日本は一つの国家、一人の元首のもとで統一国家としてスタートを切ることとなった。 岩倉使節団 [ ] 詳細は「」を参照 廃藩置県があった同じ日、岩倉は(外務省の長官)に就任している。 さらに7月にはが新設されて三条実美が就任したので岩倉が右大臣を兼務した。 外務卿になった岩倉には「条約改正」という難題が迫っていた。 かつて徳川幕府が結んだ不平等条約・日米修好通商条約は条約改正についての両国間の交渉は1872年7月1日までできないとするとしており、それがもうじき切れるところであった。 しかし、今交渉してもアメリカ側が日本の法律・諸制度が依然として「」に準拠していないことを理由に不平等条約を維持しようとするのは目に見えていた。 そこで欧米に使節団を送り、日本が依然文明開化していないことを欧米に伝え、それらの国々で近代化の様子を視察させてもらい帰国後それらを日本に導入し、文明開化を成し遂げた段階で条約交渉をしてほしいと要請して条約改正交渉を引き延ばすことが政府方針として決まった。 らは国書の原案で延期の期限を3年としたが、岩倉は無期限とすべきとしたので国書には期限は設けられなかった。 使節団には外務卿である岩倉自らが特命全権大使として参加し、参議・木戸孝允や大蔵卿・大久保利通、工部大輔・らを副使として伴い、明治4年(1871年)11月に横浜港をたち、1年10か月にわたり欧米諸国を巡り、各国元首と面会して国書を手渡したが、条約改正の糸口はつかめなかった。 この旅の中で岩倉は各国で激しいを受けた。 アメリカは岩倉の想像をはるかに超えており、よほど衝撃的だったようで三条に宛てた書状にも「殷富を進むるにおいて意想の外を出るに驚嘆」とまで称している。 さらにその原因はにあるとし、日本の繁栄も鉄道にかかっており日本の東西を結ぶ鉄道の設置が急務とする。 岩倉が帰国後の設立に積極的に携わったのもそのためである。 またイギリスでは日本では考えられない工業技術に圧倒された。 特に工場で生産されるのは、道具や武器だけに留まらず、やなどの身近な食料すら大量生産され、自国での消費だけでなく、世界各地に輸出されているという状況には驚嘆した。 もはや条約改正どころではなく使節団は各国への留学が主要目的となった。 ちなみに、岩倉は明治4年(1871年)8月にが出た後もは日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。 そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子のらに説得され、シカゴで断髪している。 明治六年政変 [ ] 詳細は「」を参照 明治6年()8月、岩倉不在のでは、西郷隆盛が依然鎖国政策をとって開国を拒否するに、自らを使者として送り込むべきだと主張し、閣議で遣使は決定された。 西郷は朝鮮にて自らが死ねば、戦争の大義名分となると考えていた。 しかし三条が明治天皇に奏上したところ、天皇は「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」と命じた。 岩倉は9月13日に横浜に到着。 この論争を聞き、すぐに内務優先を唱えてに反対の立場を表明した。 朝鮮を敵に回すことは宗主国であるも敵に回すことであり、今の日本には勝ち目はないと考えた。 のも「日本には依然軍艦も輸送のための船舶も不十分で海戦はできない」という見解を示した。 またの大久保利通も「もし勝ったところで戦費に見合うだけの国益があるとは思えない」として反対した。 しかし閣議は主席の三条のどっちつかずの態度もあって議論が紛糾した。 西郷も岩倉も否決された時は辞職を願い出る構えを見せた。 収集に苦慮した三条は10月18日に心臓病で倒れた。 10月20日、右大臣の岩倉が代わって太政大臣代理となり、10月22日には天皇の裁断をもって西郷隆盛の意見を退け、遣使を中止させた。 不服とした西郷は参議・近衛都督を辞職して鹿児島へと帰国していった。 西郷派の板垣退助・・後藤象二郎・副島種臣らの参議も辞職した。 これ以降、征韓論を支持する不平士族から政府への不満が噴出し、明治7年()1月14日夜8時過ぎには赤坂仮皇居から退出しようとした岩倉が不平士族の(士族)に襲撃される事件が発生()。 岩倉は負傷したが命に別条はなかった。 さらに2月1日には佐賀で江藤新平をかついでの不平士族の反乱()が発生する。 そして明治10年()には西郷を担いだが勃発することになる。 華族問題 [ ] 明治9年()4月19日に岩倉は、の館長となる。 しかし明治初期の華族達は、具体的に何をする者達なのか明確にされなかったこともあって、後と比べると独立性が強く、特に大名出身者と公家出身者でたびたび衝突をおこすような有様だった。 だが、岩倉の頭にあった華族とは欧州型の貴族であって、つまりその使命とは皇室を支えることにのみあるものであった。 したがって昔の枠組みによる下らない対立は無駄であることを全華族に解らせる必要があった。 そこで岩倉は強烈な華族統制政策をとるようになった。 まず全華族を組織に組み込むため、会館に部長局を設置して自ら督部長となり、出身別に6部に分け各部長を設けるなどして組織化をはかり、華族統制を強めた。 また(太政官達)を定めて、華族の品位を汚したものは処罰することとした。 この法令による処罰は犯罪はもちろんとしてスキャンダルや家財の浪費も対象となった。 また一方で明治10年(1877年)には華族の金禄公債を資本金にして華族銀行と呼ばれたを創設し、華族の財産の保護にもあたった。 華族に連帯感を持たせるためだったのだが、結果としてはこの銀行の保護を頻繁に受けたのは経済的に貧しい旧公家華族であり、また館長たる岩倉自身も元公家という経歴であるから、公家贔屓な政策と武家出身の華族から不満が続出するようになり、ついに明治10年7月には、松平春嶽・伊達宗城・・島津忠義ら有力武家華族が連署で部長局(すなわち岩倉)による華族統制の廃止を求める要望書が提出される。 岩倉は逆らわず、要求通り、11月15日に部長局を廃止。 12月4日には館長も辞職する。 しかし転んでもただでは起きない岩倉は、この際に宮内省の中に華族局をもうけさせてここに華族の統制を譲り渡した。 つまり華族は岩倉個人の管轄下から政府宮内省の管轄下へと移されていったことになる。 以降も政府を通じて華族統制につとめつつ、最終的にはのが開かれたことで自然に華族の役割もはっきりして旧武家も旧公家も同質化していき、華族間の対立は解消されていくことになる。 立憲問題 [ ] 明治8年()4月14日、明治天皇が「漸次に国家立憲の政体を立てる」というを出した()。 三条実美や木戸孝允・板垣退助(木戸の推挙で再び政府に復帰していた)が奏上したのだが、岩倉はこれに対して国体一変の恐れがあるとして詔書に反対の立場であった。 詔書が出されたことに抗議の意を示すため、4月21日に三条に辞表を提出。 さらに三条が却下したのを見ると、岩倉は病気として政府に出仕することを拒否するようになってしまった。 大久保利通が再三にわたり、もう一度出仕してほしいと依頼してきたので、10月から一応出仕はすることとなったが、岩倉はなお立憲に反対であった。 しかし明治13年()頃からが高まり、憲法制定論議が加速し、さらに明治14年()6月下旬には法務官僚・から具申を受けたことで、岩倉もいよいよ考えを変えて、憲法制定の必要性を痛感するようになった。 問題は誰に憲法制定を任せるかであった。 これに先立つ明治11年()には内務卿の大久保利通が不平士族の暴漢に襲撃されて死去している()。 以降大久保に代わって岩倉を支えていたのは、伊藤博文(工部卿)と大隈重信(大蔵卿)であったから考えられるのはこの二人のどちらかであった。 急進派の大隈はイギリス流のの憲法を主張。 たいして漸進派の伊藤はドイツ憲法を模範として議院内閣制はとらずを温存する憲法を主張した。 最終的に岩倉が憲法制定をまかせたのは伊藤であった。 このあと伊藤はが起こる中、民権運動と大隈重信を結びつけて解任を計画するようになる。 この間、岩倉は休養を取ってにいたが、東京に戻った翌日の明治13年10月7日に伊藤が岩倉邸に訪れて、大隈解任との了承を求めた。 岩倉はこれを了承し、12日に大隈を罷免する()。 こうして明治15年()3月14日、伊藤が憲法調査のためヨーロッパ各国へと派遣されることとなったのであった。 死去 [ ] しかし岩倉自身は、伊藤博文の帰国も、の制定も、その目で見ることはできなかった。 明治16年(1883年)初め頃にはの症状がはっきりと出始めていた。 岩倉は5月25日には京都御所保存計画のため京都へ赴いたが、ここでますます症状が悪化する。 これを聞いた明治天皇は、勅命により医学部教授をしていたを京都に派遣して診察させた。 岩倉はここでベルツからは癌告知を受けたが、これが記録に残る日本初の癌告知である。 その後船で東京へ戻され、明治天皇から数度の見舞いを受けたが回復することはなく、最後の天皇の見舞いの翌日の7月20日死去。 7月25日に日本初のが執り行われた。 墓所はの。 9年()• 、従五位下叙位。 、元服し、昇殿を許される。 天保12年()、従五位上昇叙。 2年()、正五位下昇叙。 7年)• 、侍従任官。 、従四位下昇叙し、侍従元の如し。 元年()、右近衛権少将に転任。 万延2年()、正四位下昇叙し、右近衛権少将元の如し。 2年()• 、左近衛権中将に転任。 、左近衛権中将辞任し、。 、落髪。 法名:友山• 3年()• 、明治政府参与兼務。 、明治政府参与から議定に異動兼務。 慶応4年()• 、明治政府(以下、この年のみ政府と略し表記)。 副総裁兼任。 、政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務。 、従三位昇叙し、右兵衛督に任官(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)。 、政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職。 閏、政府副総裁辞職。 閏、政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相兼務。 2年()• 、輔相辞職。 、正二位に昇叙し、権大納言に転任。 上局議定元の如し。 、制度改正により、上局議定より大納言に異動。 、兵部省御用掛兼務。 明治4年()• 、制度改正により大納言から外務卿に異動。 、右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動。 、横浜出航。 明治6年()• 、横浜帰航。 、太政大臣代理兼任。 但し、同日のみ。 明治9年()• 、華族会館長兼帯。 、従一位昇叙。 、華族督部長兼務。 、勲一等旭日大綬章受章。 明治15年()• 、大勲位菊花大綬章受章。 、華族督部長職廃止に伴い止む。 、華族会館長辞職。 明治16年()• 、宮内省編纂局総裁心得兼務。 、死去。 明治18年()、贈正一位。 岩倉具視幽棲旧居 [ ] 岩倉具視幽棲旧居・こちらは幽棲中に増築された建物 京都・洛北の近く(現・)にあり、今は住宅や病院に囲まれている。 数えの38歳で辞官・落飾した岩倉具視は地元の大工から古家を譲り受け、文久2年()9月から慶応3年()11月までの5年余り住んだ。 幽居中とはいえ活発に政治活動を続けた岩倉はここでも浪士らにつけ狙われた。 建物は質素な平屋建て二棟で、うち南側(表側)の1棟は移住後の元治元年()に、増加する来客に対応するため増築したもの。 具視死去後の明治35年()に、移住当初から建っていた北側の棟の屋根の一部が茅葺きから瓦葺きに改築されたがほぼ当時のまま残され、その後昭和7年()に国のに指定されている。 「財団法人岩倉公旧跡保存会」の手で管理・保存され有料で公開されていたが、平成25年(2013年)1月に同会が役員の高齢化等を理由に解散したため公開を一時中止し、その後、建物は京都市に寄贈され同年5月31日より再び公開された。 敷地内には「対岳文庫」と名付けられた小さな博物館もあり、遺品等の収蔵品のごく一部は陳列されている。 この収蔵品のうちの1011点は平成12年()に国のに指定されている。 人物・逸話 [ ] 岩倉具視の肖像が描かれた五百円札(C五百円券)• 「公は身長五尺三寸(約160cm)。 日本酒を好み、その量も中人以上に譲らなかった。 蟄居時代には、一日三回とも五勺づつ欠かさなかったが、その下物は、湯豆腐と野菜、もしくは魚類に過ぎなかった。 ただ幽居中、毎日魚類を食膳に上すことは出来なかったため、、が川魚を釣り、これを料理して公の食膳に共した。 公もまたこれを無上の馳走として喜んだという」『岩倉具視公』より• 食事の好みは牛鳥の肉類よりも、野菜もしくは魚肉の風味を好んでいた。 平生京都料理を好み、なかでも亀料理を最も好んでいた。 喫煙も好み、日本煙草を愛喫していた。 維新後は葉巻の煙草も喫煙していたが、西洋煙草は口にしなかったという。 謡曲と能仕舞も趣味として好んだが、声が小さかったので技量はあまり高くなかったという。 26年()発行開始のB号券、および昭和44年()発行開始の五百円紙幣C号券に岩倉の肖像が採用された。 C号券は昭和57年()のの登場後も、昭和60年()まで製造され、平成6年(1994年)4月1日の支払停止日まで払い出しされていた。 岩倉が設立した私鉄は、・・・やそれらの駅(・・など)として、に受け継がれ現在でも多くの人に利用されている。 また鉄道界の発展に大きく貢献した恩人として、の鉄道学校はと改称している。 評価 [ ]• 「度量が大きくて、公卿の中でも珍しい人物であったよ。 おれにさえ平気で政治上の事をいろいろ諮問せられた」• 「公は中々聡明英達の人であって、決断もあり、胆力もあり、かつ実に明弁であった。 明弁にしてことの是非得失を観ることが明らかの人であった。 我輩は岩公にいうた『閣下がもし元弘建武の世に生まれたならば、決して新田、足利をして争わしむることなく、王政復古は二百年前に出来たであろう』と。 公は実に一世の豪傑であった」• 「公は厳正にしてよく下情に通じておられた。 しかして自ら奉ずるとは至って質素であって、我輩共は内閣より下がる節によく公の邸に立ち寄ったが、公はいつも給仕のものどもを斥け、二人対酌にて膳に向かい、一本づつ燗徳利を置いて話し合った。 月に幾度となくこういう風に会合して、議論もすれば雑話もして、中々面白かった」• 「公は岩倉村に閉居の時に学問をされて、和漢の学問には一通り通じておられた。 嗜好は是というものはなかったが、囲碁は好きの方であった」• 「当世の人傑である。 今、京都に公あり。 九州に三條公あり。 二公、力を合わせて天下の為に起つならば、直ちに風雲を収拾することができる」 系譜 [ ] 妻子 [ ]• 妻:(女、養女)• 長女:増子 - 養女、夫人。 五女:静子 - 夫人、離別のち夫人。 妻:(野口為五郎女、はじめ妾、のちに後妻)• 次男:(1852年 - 1910年) - 具綱より家督相続、公爵。 院長、。 三男:(1853年 - 1890年) - 分家を創設、男爵(長男子爵陞爵)。。 次女:伊豆子 - 夭折• 三女:(1858年-1936年) - 夫人。 とともに「の華」と呼ばれた。 四女:治子 - 夭折• 六女:(1864年-1943年) - 初め恒子。 夫人、離縁のち夫人。 家女房• 長男:(1842年-1879年) - はじめ僧侶、慶応4年還俗、明治2年南岩倉家を創設、男爵。 妾:吉田花子(吉田仙次郎女)• 四男:(1881年-1946年) - 分家を創設、男爵。 養子: 1841年-1923年) - 長男、具視の長女増子の夫。 子孫 [ ]• - 具定の長男。 公爵、貴族院議員。 - 寛子の長男。 政治家。 ・理事長を務めた。 - 具定の長女。 妃 後妻。 - 具経の三男。 、副社長等。 の番町会設立者。 - 具経の四男。。 - 具定の五男。 - 具綱・増子夫妻の長女。 の次男の妻。 - 具張の長男。 英文学者。 教授、岩倉鉄道学校(現)総長。 - 具張の次男。 言語学者。 - 具張の三男。 - 具張の三女。 で検挙・起訴された。 釈放後自殺。 - 有馬頼寧の三男。 - ・夫妻の孫。 哲学者。 - 森有正の妹。 元日本会長。 館長を1990年から2001年6月まで勤めた。 - 具顕の長男。 岩倉具賢 - 具顕の次男。 - 具顕の長女。 本名(旧姓)は岩倉具子。 - 具栄の長男。 イタリア文学者。 - 具栄の次男。 株式会社代表取締役会長。 - 具方の三男(-)。 政務調査会事務部長。 農業問題専門家。 - 具定の曾孫。 人材教育・人材派遣会社「クレセントスタッフ」を経営。 - 具定の曾孫。 IT会社「ロック・ストアー・ハウス株式会社」代表取締役。 - 具憲の娘。 婦人服ブランド「スポーティフ」を経営。 - 11代目。 - 20代目当主。 極子の孫。 - 元、(第30代)。 恒子(のちの寛子)の孫。 - 歌手、俳優。 小桜葉子の長男。 - 元。 具賢の長男。 - 元ザ・ランチャーズ。 音楽プロデューサー。 具賢の次男。 - 、元政策調査会長。 - 元女優• - 俳優• - 女優・料理研究家• - 女優• - の娘・初子の外孫。 デザイナー・レディースブランド「」のクリエイティヴディレクター• のパートナー弁護士。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• ただし石高では岩倉家と同程度の家が大多数であり、それ以下の石高の家もたくさんあった。 岩倉家の始祖の子の開基による寺。 この時期、岩倉の朝廷及び公家社会の現状に対する不満が強かった。 この頃書かれた「極密語」と銘打った文章において、天下混乱の最大の原因は孝明天皇にあるとして、天皇は天下へ謝罪した上で自ら政治の刷新をすべきと論じている。 また、「続叢裡鳴虫」の中で公卿たちは武威に押されて定見が無く、他人の説を鵜呑みに付和雷同して互いを誹謗するのみの軽薄な存在であるとし、安政5年以後で真に国事に尽くした公卿は自分以外には中山忠能・正親町三条実愛・大原重徳だけだと断言している。 ただし協力していた藩士が少なからずいたというだけで薩摩藩そのものが協力していたかどうかは不明。 少なくとも薩摩藩首脳のはこの計画に懐疑的であった。 の『孝明天皇は毒殺されたのか』によると孝明天皇の死因が天然痘であることは病理学的にも明白で毒殺はあり得ないとしており、この著作の登場以降、多くの歴史学者がこれを支持するようになり、現在では否定説が通説である。 詳細はを参照。 から続くの禁教及びそれに伴うに代表される凄惨かつ非人道的なが行われていた事が欧米諸国に知れ渡っていた事が要因である。 出典 [ ]• 『岩倉具視文書』巻一P264• 『岩倉具視文書』巻一P179・180• 『岩倉公実記』、1906年。 国立国会図書館 :• Nikkei Style『』、2011年12月16日。 新聞集成明治編年史第二卷、林泉社、1936-1940• 『官報』第20号、「賞勲敍任」1883年7月24日。 [ ]朝日新聞デジタル 2013年6月5日閲覧• 『岩倉具視公』• 『岩倉具視公』• 「海舟全集 第十巻」• 「伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談」• 「伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談」• 「伊藤侯,井上伯,山県侯元勲談」• 「維新風雲回顧録」 参考文献 [ ]• 多田好問『』、1906年 - ウィキソース• 『岩倉具視 幕末維新の個性5』 2006年• 『岩倉具視』 、増補版1990年、初版1973年• 『岩倉具視 幕末・維新の群像2』 PHP研究所、1989年• 『』(、、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(1990年、日本テレビ年末時代劇スペシャル、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:)• 『』(2004年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(、NHK大河ドラマ、演:) 関連項目 [ ]• - 上野、鉄道界の恩人と賞された岩倉の遺徳にちなんで命名• - 岩倉氏の• - 歴代2種類はいずれも岩倉具視の肖像を使用している。 外部リンク [ ] ウィキソースには、の原文があります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 ウィキメディア・コモンズには、 岩倉具視に関連する および があります。 ウィキソースに の原文があります。 (公式ホームページ、指定管理者のサイト)•

次の

岩倉使節団という冒険 (文春新書)

岩倉 具視 使節 団

「岩倉使節団」については歴史の教科書や資料集で見たことある方も多いのではないでしょうか。 「岩倉使節団」は明治時代の最初の方で 「明治政府の要人が欧米の情勢をさぐるため」行ったというイメージが強いかもしれませんね。 また「岩倉使節団」のメンバー写真を見たことがある方は多いでしょう。 リーダーの岩倉具視の「これで、欧米行ったのか!」 と突っ込みたくなる髪型が印象的な写真です。 実際あの髪型は「未開国ようでまずい」ということで、欧米訪問中に強制的に変更させられます。 明治政府初期の最高権力者となった大久保利通も「岩倉使節団」に同行しています。 国内の整備に力を入れなければいけない時期に なぜ明治政府の中枢を担う大久保利通や岩倉具視がイギリス、 ドイツなどの欧米諸国を訪問したのでしょうか。 今回はその理由について考えていきます。 そして「岩倉使節団」とは、いったい何であったのか? 歴史の中での評価をしてみたいと思います。 (画:) 西郷どん: 関連記事: この記事の目次• 大久保利通がイギリスに行った理由 「岩倉使節団」が横浜港を出発したのは1871年(明治4年)11月です。 まだ明治政府は出来たばかりの時期です。 新興国家として国内の様々な問題を解決しなければいけない時期でした。 そのため「岩倉使節団」は明治政府内でも「暴挙ではないか」という批判があったのです。 不平士族が不穏な動きをみせ、爆発寸前の状況にあることは明治政府内で常識以前の問題でした。 当然、大久保利通がそのことを知らない訳がありません。 しかし、大久保利通は特命全権大使の岩倉具視に次ぐ福使として「岩倉使節団」に加わりました。 なぜでしょうか? 大久保利通は、若いころは「討幕」。 そして「攘夷」を主張していました。 日本から外国勢力を力でもって払いのけるということです。 しかし、大久保利通は幕末時代の中で「攘夷」は無理であるという判断をします。 信念の人であり、目標のためには手段を選ばず、 どのような犠牲を払ってもまい進する人物。 それが大久保利通です。 だからこそ、怜悧であり冷血であり酷薄であるという誤解に基づく評判が立ったのです。 大久保利通が信念の人であればなぜ「攘夷」をあきらめ変節したのかと疑問に思うかもしれません。 そのような誤解を持ち、外国に媚を売っているという誤解による批判も大久保利通にはありました。 彼が暗殺という最期を迎えた理由のひとつです。 この誤解は、大久保利通の 「目標」が「攘夷」でなく「手段」であったと理解すれば腑に落ちます。 大久保利通の目標は、日本という国を欧米諸国と対等な近代国家にすることです。 幕末時代の「攘夷」も欧米諸国に侮られない、 日本国の力(薩摩藩)を見せつけられると思っていたのです。 しかし、薩英戦争の敗北を経験し「攘夷」では 目標である外国勢力に侮られない日本を創るのは無理であると大久保利通は理解します。 イギリスに敗北したことは、彼の「手段」を変更する機会となったのです。 大久保利通は揺るがぬ信念を持ち目標に向けまい進します。 一方で、そのための手段を切り替える柔軟で鋭利な頭脳の持ち主でもあったのです。 目標は何ら揺らいでないのです。 変わったのは手段でした。 「岩倉使節団」はアメリカを経由し、当時世界最大の先進工業国であり、 「太陽の沈まない国」と称される世界最強国のイギリスに4か月滞在します。 他の国に比べ非常に長期の滞在です。 「岩倉使節団」No. 2の大久保利通の意思 そこには、「岩倉使節団」No. 2である大久保利通の意志を感じます。 イギリスは大久保利通が直接戦った国でもありその力を肌で体験していた国でした。 彼の中では「先進欧米諸国のモデル」であったのではないでしょうか。 そして国王を持つイギリスは、 明治政府の目指す立憲君主国のモデルに近いと思ったかもしれません。 大久保利通はイギリス滞在中に、何度も西郷隆盛に手紙を出しています。 西郷は日本に残っていました。 (そのことがふたりの間に悲劇を生む原因となりますが) 大久保利通は西郷隆盛への手紙で何度もイギリスの国富と精強さを伝えました。 彼は4か月の長期滞中に考えたでしょう。 世界最強最先進国であるイギリスと、やっと世界の中に船出を始めた明治日本の差です。 この差を埋めることができるのか? 大久保利通の目標である近代国家である日本。 欧米諸国と対等な国家を作るという目標としてイギリスはどう映ったのでしょう。 その後、明治政府の最高権力者となった 大久保利通の眼にイギリスはあまりに隔絶した国に映ったのではないでしょうか。 イギリスをモデルにイギリスを超えられるのか? 対等な国家となれるのか。 結局その結論は、ドイツ訪問で得られたのではないかと思います。 明治政府はイギリスを追い上げるヨーロッパの新興国家であるドイツを手本として国家建設を行います。 大久保利通も鉄血宰相と言われたドイツのビスマルクの政策に「暗示を得た」と語っています。 イギリスという目標に達する手段として、彼はドイツという国をモデルに選んだのです。 大久保利通の「富国強兵」というスローガン。 「殖産興業」という国家主導による産業の育成政策。 これは、イギリスという最強国家を目指すドイツを手本とし、 日本もそのラインで近代化を果たそうとしたのでしょう。 イギリスの国富、精強さは近代日本の目標ではあっても、 手本とするにはあまりにも隔絶し、国おかれた状況が違いすぎていたのです。 大久保利通はイギリスに滞在することで、そのことを知ったのではないでしょうか。 岩倉使節団が重要視していた「不平等条約の改正」 特に重視されたのは、不平等条約の改正です。 江戸幕府が幕末に各国結んだ不平等条約を改正しなければ、 日本は欧米諸国と対等な国家ではないという共通認識が当時の政府中枢にありました。 1872年(明治5年)7月から欧米15カ国との間に結ばれた不平等条約改訂の通告ができる時期が来ます。 この時期が迫った前年の11月。 明治政府は「岩倉使節団」を派遣します。 不穏な国内情勢の中でもあえて、この時期に派遣したこと。 それだけ不平等条約改正のため予備交渉が重視されていたのです。 ただ、その目的は全く達成されませんでした。 領事裁判権を撤廃しようにも、国内刑法が整備されていませんでした。 関税自主権を取り戻そうとしても、商業のルールとなる商法が整備さていませんでした。 明治日本はまだ、近代国家としての形すらできていなかったのです。 ですので、欧米諸国にその点を突かれれば全く反論はできませんでした。 頭の切れる策士・大久保利通でもどうすることもできません。 個人の力の限界を超えています。 この時期の日本は、あまりにも近代国家として未熟であり、 まだ欧米諸国と交渉のテーブルに立つ資格すらなかったのです。 それは、国力以前の問題でした。 しかし、「岩倉使節団」は結果として歴史的に重要役割を果たしました。 欧米先進国の視察、調査を通し近代日本の方向性に大きな影響を与えたのです。 大久保利通の示した国家指針である「富国強兵」、 「殖産興業」も彼が「岩倉使節団」に参加していなければ生まれなかったかもしれません。 政府中枢の半数が国を空けた理由 「岩倉使節団」には新生明治政府の中枢となる人物が名を連ねました。 政府中枢の半数を動員した大規模な使節団だったのです。 岩倉具視を特命全権大使とし、その規模は使節46名、随員18名、留学生43名となります。 大久保利通は岩倉具視をサポートするNo. 2として副使となりました。 その他幕末に活躍し、明治政府の中心となった木戸孝允(桂小五郎)も副使として同行します。 さらに、初代内閣総理大臣となる伊藤博文も使節団の中にその名を見つけることができます。 また、留学生の中には後に「日本のルソー」称されることになる哲学者の中江兆民。 大久保利通の次男であり、その血統から多くの総理大臣を輩出する外交官の牧野伸顕。 津田塾大学の創設者となる当時9歳の津田うめもいました。 このような大規模で、政府中枢の人材を半数も派遣する 「岩倉使節団」には、反対も声もありました。 新たな日本を創らねばならない時期に2年間もの間、 政府中枢の人材の半数が国を空けるのです。 その反対もある意味当然といっていいものだったでしょう。 しかし、この時期は、不平等条約の改正のチャンスでした。 条約改正の通告が可能となる時期がきていたからです。 そして、日本の近代化、国内制度の整備には、 先進国であるイギリスを中心とした欧米諸国に訪問するのは、 必須のことであると明治政府の主流派は考えたのです。 それは、国内で不平士族の不穏な動きが出ている中でも、 実施されなければならないと判断されたのです。 その最大の目的が不平等条約解消の足掛かりをつくることだったからです。 不平等条約の改正は、近代日本が欧米諸国と対等な国家となったという証になることであり、 明治政府にとっては最重要課題のひとつでした。 批判が多かった岩倉使節団には意味があったのか? 「岩倉使節団」は最大の目的である不平等条約の改正については、 何ら成果を上げることができず帰国します。 政府中枢の貴重な人材を2年間の欧米諸国に派遣し、 膨大な国費をつぎ込んだ結果が、当時は「全く成果なし」と判断されたのは、 仕方のないことだったでしょう。 そのため批判が多かったのは当然であったでしょう。 人間はその時代という「今」の中で生きており、 それが時代という枠の中に閉じ込められた人間の限界です。 当時の人から見れば「未来」は暗幕で閉ざされているのです。 今起きていることが、未来にどのような影響を与えるかなど、簡単に見通せるものではありません。 現代に生きる私たちが後知恵で「あの時こうすればよかった」 と歴史の人物を批評することがあります。 しかし、それは現代という「未来」を生きている我々と、 歴史の中の「今」を生きている人たちの視点を無視した暴論でしょう。 そうであるゆえに、当時「岩倉使節団」を批判した人たちには、 その時点における「正しさ」があったと思います。 しかし、「岩倉使節団」が無意味であったのかというと、そのようなことはありませんでした。 凄まじい国力と先進工業力を誇るイギリスを体感したこと。 そして、そのイギリスを追いかけるヨーロッパの中の新興国であるドイツを見たこと。 少なくとも大久保利通が明治政府のスローガンとして打ち出した「富国強兵」。 そして国家主導で行われた産業育成政策である「殖産興業」は、 「岩倉使節団」に大久保利通が参加していたからこそうまれたのかもしません。 薩英戦争で、イギリスの軍事力の一部を知り、 そしてその軍事力を支える国富と先進工業力を目の当たりにしたこと。 そしてそれを追うドイツの存在。 この両国を直接見たことにより大久保利通の中に日本近代化の手段が見えたのではないでしょうか。 その意味で「岩倉使節団」は日本の近代化に大きな影響を与え、 決して無意味なものではなかったと言えます。 幕末ライター夜食の独り言 大久保利通という稀有の人材が幕末時代、 明治維新の時代に存在したことは、日本にとって幸運だったと思います。 そして、彼が「岩倉使節団」に参加しイギリスとドイツを直接見てその国を観察できたことは、 日本の近代化に大きな道筋を作りました。 歴史の中で、あまり評価されない「岩倉使節団」ですが、 明治維新後の日本の驚異的な近代化は、大久保利通という稀有な人材に、 イギリスとドイツを体験させた「岩倉使節団」に起点を求めることができるのではないでしょうか。 西郷どん: 関連記事: 関連記事:.

次の

岩倉使節団

岩倉 具視 使節 団

岩倉使節団年表 岩倉使節団年表 日付(明治) 発着地、備考 日本国内 4. 12(陰暦) 陽1871. 23 4. 6 4. 22 4. 26 5. 14 横浜港より出発、米国へ (米 国) サンフランシスコ着 歓迎会、施設・機関見学 サンフランシスコ発 ソルトレーク着 ソルトレーク発 オマハ、シカゴを経て大陸横断 11. 13〜22 全国の県を改廃(1使3府72県) 5. 15 土地永代売買解禁 2. 28 兵部省を廃し、陸軍省、海軍省設置 5. 21 5. 25 5. 03 5. 12 5. 24 ワシントン着 (陽暦72. 29) 大統領グランドと謁見 条約改正交渉開始 大久保利通、伊藤博文ら日本へ 大久保、伊藤、日本着 この間、米国憲法などの翻訳、諸機関・施設の見学を続ける 5. 04 5. 05 5. 08 5. 12 5,05,17 5. 17 5. 22 5. 24 5. 25 5. 28 5. 03 ワシントン発、北部地方の巡覧 ニューヨーク着、ウエストポイントへ ナイアガラ着、 前大統領フェルモアを招待 ボストン着、音楽会へ 5. 13〜14 大久保、伊藤、日本発 大久保、伊藤、ワシントン着 条約改正交渉打切り ワシントン発 フィラデルフィア着、議事堂など見学 ニューヨーク着、バイブル会社見学 ボストン着、市中、諸機関・施設見学 ボストン発 イギリス、リバプールへ 4. 09 戸長、副戸長をおく 5. 陸奥宗光、地租改正建議 5. 23〜7. 12 天皇、近畿、中国、九州へ巡幸 7. 13 5. 14 5. 16 5. 01〜02 5. 27〜10. 08 5. 09 5. 22 5. 27 5. 03 5. 05 5. 06 5. 16 (イギリス) コーブ着、リバプール経由 ロンドン着 グランヴィル外相と会見、 ヴィクトリア女王は避暑中で不在 バッキンガム宮殿、議会見学 ロンドン発、スコットランドへ リバプール、マンチェスター、グラスゴー、エジンバラ、ハイランド地方、ニューカッスル、シェフィールド、バーミンガムなど巡覧 ロンドン着 (陽暦1872. 9) 岩倉・グランヴィル第一回会談 岩倉・グランヴィル第ニ回会談 木戸孝允ら、ダブリンに至り、アイルランドの議院、その他見学 ヴィクトリア女王と謁見 (陽12. 05) 岩倉・グランヴィル第三回会談 意見対立で会談打切り ロンドン発 ドーヴァーからカレー(フランス)へ 7. 04 壬申地券交付 8. 03 学制頒布 9. 12 新橋・横浜間鉄道開通式 9. 14 琉球藩設置 9. 23 三井組ハウス落成式 10. 02 人身売買禁止、 娼妓の年季奉公廃止 11. 15 神武天皇即位の年を紀元とし、1月29日を祝日とする(のち2月11日に改める) 11. 15 国立銀行条例公布 5. 16 5. 26 6. 01(陽暦) 6. 17 (フランス) パリ着 (陽暦1872. 16) 大統領ティエールと謁見(陽暦12. 26 改暦(陰暦・明治5年12月3日を陽暦明治6年1月1日とする) 新年祝賀のためヴェルサイユ宮殿へ パリ滞在中、宮殿、公園、諸機関・施設を見学。 パリ・コミューンのあとを見る パリ発 11. 28 徴兵詔書出る 明治6年1月1日 改暦 1. 10 徴兵令制定 2. 07 仇討を禁止 6. 17 6. 18 6. 24 (ベルギー) ブリュッセル着 国王レオポルド二世と謁見 諸機関・施設などを見学 ブリュッセル発、ロッテルダム経由 2. 24 キリシタン禁制の高札を撤去 6. 24 6. 25 6. 07 (オランダ) ハーグ着 国王ウイリアム三世と謁見 ロッテルダム、ライデン、アムステルダムを巡覧。 諸機関・施設を見学 ハーグ発、エッセン経由でドイツへ 2. 24 キリスト教解禁 2. 25 ウィーン万国博覧会(5. 01〜11. 02)へ佐野常民ら出発 3. 03 皇后、お歯黒をとり、眉墨をおとす 3. 04 越前で一揆 6. 09 6. 11 6. 15 6. 27 6. 28 6. 28 (ドイツ) ベルリン着 皇帝ウィルヘルム一世と謁見 夜、帝宮にて会食、モルトケら150人 ビスマルクの招宴に臨む ベルリン滞在中、諸機関・施設を見学 ポツダムへ 大久保利通、帰国の途につく マルセーユ経由、横浜着 5. 26 ベルリン発、ブスコフ経由でロシアへ 3. 14 外国人との婚姻を許可 3. 20 天皇断髪 以後、散髪する者が増加 6. 30 6. 03 6. 14 6. 16 (ロシア) セントペテルブルク着 皇帝アレクサンドル二世と謁見 帝宮、諸機関・施設を見学 セントペテルブルク発 木戸孝允、帰国の途につく (ベルリン、ウィーン、ローマ、ジュネーブ、マルセーユ経由、横浜着 7. 23) 3. 31 ペルー国使節、マリア・ルース号事件の損害賠償を要求 (日本は拒否 6. 14) 4. 13 軍人犯罪律を改正 6. 18 6. 19 6. 23 (デンマーク) コペンハーゲン着、ハンブルク、 キール経由 国王クリスチャン九世と謁見 王宮、諸機関・施設を見学 コペンハーゲン発 マルメ経由でスウェーデンへ 4. 19 後藤象二郎、大木喬任、江藤新平、参議就任 6. 24 6. 25 6. 29 (スウェーデン) ストックホルム着 国王オスカル二世と謁見 諸機関・施設を見学 ストックホルム発、マルメ、コペンハーゲン、リューベック経由 4月 上野公園、設置決定 6. 01 6. 07 (ドイツ) ハンブルク着 北部ドイツ地方巡覧。 ハノーヴァー、フランクフルト、ミュンヘンなどを経由 ミュンヘン発 インスブルック、ヴェロナ経由 5. 02 太政官職制を改め、正院に権力集中 5. 05 皇居火災 5. 07 井上馨大蔵大輔ら財政改革意見を提出 5. 14 井上、渋沢栄一免官 6. 09 6. 10 6. 11 6. 13 6. 20〜23 6. 26 6. 27 6. 02 (イタリア) フローレンス着 各地の古跡、諸機関・施設を見学 フローレンス発 ローマ着 皇帝エマヌエレ二世と謁見 ナポリ滞在 ローマ発 フローレンス、ボローニャ経由 ヴェニス着 「アルチーフ」の古文書館など見学 ヴェニス発 5. 26 大久保利通 帰国 5. 26 北条県(美作)で農民大一揆、各地で血税一揆あいつぐ。 03 6. 08 6. 18 (オーストリア) ウィーン着 皇帝フランツ・ヨーゼフ一世と謁見 万国博覧会見学 ウィーン発 ザルツブルク、ミュンヘン経由 6. 09 大蔵省、予算を初公表 6. 13 改定律例頒布 6. 19 6. 20 6. 20 6. 21 6. 23〜 6. 29 6. 29 6. 15 (スイス) チューリッヒ着 チューリッヒ発 ベルン着 大統領セレソールと謁見 ルツェルンなど湖水周辺を回覧 ベルン発、ローザンヌ経由 ジュネーブ着 市内の諸機関・施設を見学 日本より至急帰国命令の電信着く スペイン、ポルトガル訪問の中止 ジュネーブ発 6. 16 福岡県で米価騰貴による農民一揆 6. 25 集議院廃止 6. 25 マリア・ルース号事件で日本・ペルー約定成立 6. 29 特命全権大使副島種臣、清国皇帝に謁見 6. 15 6. 17 6. 18 6. 20 6. 22〜 (フランス) リヨン着 生糸改会所など見学 リヨン発 マルセーユ着 市内、海岸など見学 マルセーユ発 郵船「アウア」号で帰国の途へ ナポリ着 メッシーナ海峡経由 地中海、ポートサイド、スエズ運河、アデン、アラビア海、セイロン島、ベンガル湾、マラッカ海峡、シンガポール(コレラ流行のため上陸せず)、サイゴン、香港、上海などを経由 9. 05 郵船「ゴルテンエン」号で上海から日本へ 7. 23 木戸孝允 帰国 7. 26 地租改正条例など公布 8. 03 参議西郷隆盛、征韓意見書を閣議に提出 8. 17 西郷の遣韓使節、内定 9. 01 明六社第一回の集会 9. 05 三池炭山を官営とする 6. 06〜07 09. 09〜11 6. 13 6. 14 (日本) 長崎着 神戸着 横浜着 岩倉使節団、岩倉具視、正院において復命 9月 開化物の出版あいつぐ.

次の