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RCサクセションの歌詞一覧リスト

サクセション

RCサクセション 出身地 ・ ジャンル 活動期間 - レーベル 事務所 りぼん うむ 共同作業者 メンバー (・) (・ボーカル) (ギター・ボーカル) (ギター・) () 旧メンバー (ギター・ボーカル) (ドラムス) (ギター) (キーボード・ギター) RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本の。 をリーダーとし [ ]、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど「日本語ロック」の成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。 実際、RCサクセション 以下、特段の理由がない限り「RC」と略す に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。 彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。 その後、より無期限の活動休止状態に入ったまま復活することはなく、2009年に忌野が死去したことにより、事実上バンドは解散となった。 概要 [ ] メンバー [ ] 忌野清志郎公式HP「地味変」より。 楽曲 [ ] 特徴 [ ] 基本的には忌野が作詞・作曲した楽曲をバンドでアレンジして演奏、レコーディングする。 自作・自演し、アレンジまでするというスタイルは今でこそ珍しくないが、1970年代初期ではまだ異例だった。 忌野1人による制作曲のほか、時期によっては仲井戸や小林、Gee2woらとそれぞれ共作もしている。 音楽性、歌詞の世界観などは「」の頁を参照。 また、アルバム『BLUE』以降は、仲井戸が作詞・作曲しボーカルをとった曲が1枚のアルバムに1曲以上収録されている。 バンド名の由来 [ ] バンド名の「RC」とは、忌野自身が「ある日 RC バンドを作成 サクセション しよう」からだとジョークで言ったこともあったが、実際は「The Remainders of Clover リメインダーズ・オブ・クローバー。 和訳:クローバーの残り物 」の略である。 来歴 [ ] 、中学の同級生だった忌野、小林、破廉の3人でバンド「ザ・クローバー(The Clover)」を結成する。 、高校進学によりザ・クローバー解散。 忌野と小林は、上級生の武田清一(のちに「」でデビュー)を迎えて「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (The Remainders of the Clover 「クローバーの残党」の意))」を結成。 初めてギャラをもらう仕事をする。 、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消滅した後、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション (The Remainders of the Clover succession 「クローバー〜からの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名する。 RCサクセション誕生。 、テレビ番組「」 のオーディションに合格。 続いて、主催の「」オーディションで第3位に。 この模様を収録した盤が初めての公式音源となる。 収録曲は「泥だらけの海」。 、「」で東芝音工(現)よりシングルデビュー。 、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「」で当時フォークグループとして活動していた仲井戸麗市と出会う。 、ラジオ番組「」「 後に、『』に改題 」 などへの出演を始める。 3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。 1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。 、当時のマネージャーが事務所 に造反、独立してプロダクション「」を設立。 RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。 、ホリプロダクションから「りぼん」へ移籍。 前年にすでに制作済みだった3rdアルバム「」がようやくリリースされるも、1年後にとなってしまう。 破廉は精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなる。 、破廉が正式脱退。 さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。 忌野は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。 、春日に替わって小川が加入。 RCはそのライブパフォーマンスが評判となり、マスコミでたびたび取り上げられるようになる。 の前座として初めてのステージに立つ。 音楽評論家のらが3rdアルバム「シングル・マン」の再発売を懇願するため「シングルマン再発実行委員会」を発足、との折衝が繰り返された結果、自主制作というかたちで300枚限定で異例の再発売が決定する。 当初は国立の「レコード・プラント」、青山の「」の2店のみでの販売だった。 、「雨あがりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス「」で4日連続のコンサートを開催。 のべ800人の観客を動員し、同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。 での、とのジョイントコンサートも約2000人の観客動員を達成、RC人気に火がつく。 「シングル・マン」が正式に再発売される。 このアルバムは、1980年6月、東京・久保講堂におけるコンサートの実況録音盤である。 同アルバムリリースと前後し、小川が脱退。 替わって、それまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。 、初の日本武道館単独公演。 この年を始めとしてその後10年間連続で武道館クリスマスコンサートを行う。 この年はその他にも年間100本近いコンサートを行う。 、忌野が(当時)と組んで発表したシングル「」が82春のキャンペーンソングとしてヒット。 では、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻する。 に移籍。 自身の「BARCA」を設立。 、事務所「りぼん」から独立。 自分たちの事務所「うむ」を設立。 西武劇場(現)で独立記念コンサート「スーパーエイプリルフール」を開催(、坂本龍一、、三浦友和らがゲスト参加)。 、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラヴ・ミー・テンダー」とアルバム『(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。 同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。 、HARD TIMES LIVE ツアーはリリースされていない新曲中心という異例の構成で行われる。 また、レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。 、Gee2wo、新井田が相次いで脱退。 現段階でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。 続くツアーは札幌、仙台、福岡、名古屋、大阪および日本武道館のみ行い、以降(翌年)のツアーはすべてキャンセルされる。 1月、無期限活動休止に入る。 詳細・エピソード [ ] 結成 〜 デビュー「宝くじは買わない」 バンド黎明期 [ ]• 活動拠点としていた「青い森」「」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと親交を深める。 泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。 アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。 ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。 すでにこのころのセットリストには、「ファンからの贈り物」「ダーリン・ミシン」「うわの空」「マリコ」「君が僕を知ってる」「お墓」等、後年レコーディングされた曲のタイトルが見られる。 デビューシングル「」は、当時のマネージャーであった金田が連れてきた伊勢田トリオというグループをバックに演奏したが、最終的にレコードになったときにはスタジオミュージシャンのテイクが使われた。 『初期のRCサクセション』 〜 『楽しい夕に』 (アコースティック期) [ ]• 1stアルバム『初期のRCサクセション』は、最終的なマスタリング作業にメンバーが立ち会わせて貰えず、完成したレコードの音源に自分たちの意図しない勝手なアレンジがほどこされていたために不満を感じる。 そのため2ndからは自分たちの演奏を主体としたレコード作りを始め、後年まで外部プロデューサーの介入を避けるようになる。 1970年代初期の未発表ライブ音源が『ロック画報2002年第10号』の付録CDに収録されている。 曲は、「つまらない仕事」「ぼくとあの娘」「忙しすぎたから」「内気な性格」「もっと何とかならないの?」「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」の6曲。 選曲は清志郎自身が行い、には清志郎と破廉が立ち会った。 忌野の高校の同級生である俳優のは、『初期のRCサクセション』に収録の「言論の自由」にで参加している。 三浦はステージにもよく加わることがあり、また一時期破廉と同居するなどかなりRCと親交が深かった。 忌野が作詞・作曲した「指輪をはめたい」を元にして、と「帰れない二人」を共作。 もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された陽水のアルバム『』 が日本音楽史上初のミリオンセラーLPとなる。 1974年、ホリプロダクションの奥田義行プロデューサーが、当時大ブレイク中だった陽水を連れてホリプロを離れ、独立事務所「りぼん」を設立。 この造反行為に激怒したホリプロは、奥田の子飼いだったRCの「りぼん」移籍を阻止。 RCはスタッフも仕事も与えられず飼い殺し状態となる。 この頃、3枚目のアルバム『シングル・マン』を録音するも、事務所の移籍トラブルによりお蔵入りになってしまう。 『シングルマン』 〜 「わかってもらえるさ」(暗黒期) [ ]• 、仕事がほとんどなくなり、活動休止状態になる。 、ホリプロとの契約が切れ、正式に「りぼん」に移籍。 レコード会社を東芝音工からポリドールに移し、3年1ヵ月ぶりのシングル「」、3年4ヵ月ぶりの3rdアルバム『』をリリース、さらにキティレーベル 後のキティレコード)に移籍してシングル「わかってもらえるさ」を発売するも、すぐにそれらのレコードは廃盤となる。 アルバム『』には契約上クレジットされなかったが、や、らが参加していた。 また、「わかってもらえるさ」ではメンバーに破廉がクレジットされているものの、破廉は極度の鬱状態でギターが弾けず、ギターはすべて忌野が弾いた。 また、アルバムには契約の問題で上記のゲストミュージシャンを表記できなかった為「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と書いてある。 アルバム『』のジャケットに使われているイラストは(金子出版)のもの。 元本は忌野自身が探してきた。 なお、当アルバムのジャケットに使われているRCサクセションのロゴも忌野がデザインしている。 5万円で買った忌野の愛車クーペが廃車となる。 のアルバム「氷の世界」に提供した二曲の印税で買ったと言われる。 この車をモデルとしてこの頃「雨あがりの夜空に」の歌詞が書かれた。 その後も忌野は2台続けて中古のサニークーペを購入したが、これは当時一番安い中古車だったからである。 当時唯一の活動と言ってもよかったのが他のミュージシャン(、等)の前座であったが、メインアクト目当てで来ている観客からは「クソッタレ」「早く消えろ」等の罵声を浴びせられることが少なくなかった。 の前座で出演した際にはRCが登場するやいなや観客から「帰れ」コールが浴びせられたため、忌野が客をからかって「矢沢B吉でーす。 永ちゃんはいま楽屋でクソしてるんで僕らがやりまーす」と発言。 客席は大混乱となり、演奏中絶えず「死ね」など怒号のような野次を喰らう。 破廉ケンチ、脱退(実際は破廉の鬱症状があまりにも酷く、それが原因でエレキギターが弾けない事を見かねた忌野がクビにした)その後はジャズ・ギタリストの阿部昇がサポートメンバーとして参加した。 頃から当時の、のをサポートギタリストに迎え渋谷のライブハウス「」を中心に活動。 若年層を中心に絶大な支持を得てライブは連日連夜満員となる。 同時期にドラマーのが加入。 当時、清志郎は「シングル・マン」以降の暗黒期に行き詰まって複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っていた反省から、シンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つの楽曲研究を重ねた。 この頃、のに影響を受け、それまで長くしていた髪を切り落とす。 ステージでは髪の毛を立てたり奇抜なメイクを施すようになった。 「ステップ! 」 〜 『BLUE』(復活・ブレイク期) [ ]• 7月21日、2年8ヵ月ぶりのシングル「」を発売し、再デビューする。 しかしこのシングルも、まだメンバーの演奏力を信用しきれていなかった制作担当者によりスタジオミュージシャンのテイクが採用されている。 8月、NTV「紅白歌のベストテン」に出演。 音楽評論家のが音頭を取って「シングルマン」再発実行委員会が発足する。 深夜ラジオでの放送が増える。 この年積極的にステージを求め、各地の大学祭に多数出演している。 11月16日、で行われた古井戸の解散コンサートで仲井戸麗市の正式加入が発表される。 1月21日「雨あがりの夜空に」発売。 1月『「雨あがりの夜空に」発売記念コンサート』を渋谷で開催、4日間連日満員で屋根裏の観客動員記録を塗り替え話題となる。 4月久保講堂で「RHAPSODY」録音。 5月シングル「ボスしけてるぜ」、6月アルバム「RHAPSODY」、10月シングル「トランジスタ・ラジオ」、12月アルバム「PLEASE」と、立て続けにレコードを発売した。 忌野がの言葉を日本語にしてステージ上で観客へ呼びかけた「愛しあってるかい?」というフレーズは一世を風靡。 「清志郎ルック」の髪型やメイク、ファッションを身にまとった若者が出現するに至って、音楽誌のみならず『』や『』、『』、各新聞などでも取り上げられ、サブカルチャー的存在として社会現象とまでなる。 1980年付のの社説では、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」とまで評される。 アルバム『RHAPSODY』リリース後、バンド名を変えようという話もあったが、「いちおうこれだけ続いたバンド名なんだから」という理由で却下される。 レコードを連発、コンサートも満員の人気バンドでありながら、忌野は杉並区の風呂無しアパートに住んでいた。 81年に引っ越した後に入居したのがである。 『BEAT POPS』 〜 『King of Live』(絶頂期) [ ]• 編集長のもと、パンク、系の音楽雑誌となっていた雑誌『宝島』で、日本のロック・バンドのシンボル的存在として何度も取り上げられる。 特に清志郎は「ロック少年・ロック少女たちの的存在」となり、漫画等にも清志郎をモデルとしたと思われるキャラクターが描かれるようになる。 、レコード会社をロンドン・レコードに移籍。 、シングル「サマーツアー」がヒット。 TBS系テレビ「」に8位で一回のみランクインし、出演。 (8月5日)• 6月14日、フジテレビ系生放送番組「」に出演しサマーツアーを演奏した際、清志郎が曲の最中画面狭しと暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に「ふざけるな」など抗議の電話が殺到。 その数は500本近くに上ったと言われている。 アルバム『』は、RC初の海外(ハワイ)録音。 飛行機嫌い、海外嫌いだった仲井戸が初めて海外に行った。 感想は「けっこういいとこだったよ。 外には出なかったけど」。 アルバム『OK』制作時頃より、忌野の体調が最悪の状態になる。 喫煙、ジャンクフード、ドラッグ漬けの生活といった長年の不摂生、ライブとレコーディングに追われる過密スケジュール、風呂なし極貧アパートでの不衛生な生活という低待遇など無理が重なったためと思われ、検査の結果、医者に「君の肝臓は一生治らない」と宣告される。 『FEEL SO BAD』 〜 『Tears of a Clown』(激動期・その1) [ ]• 、ロンドン・レコードの日本法人が成績不振のために解散し、ロンドン・レコードはポリドールレコードに吸収される。 RCは古巣の東芝EMIに移籍。 だが、それらの発売に関しミュージシャン当人たちに事前に許可が取られていなかったこと、RCが嫌悪していたNEWSレコードから発売されたことに対してメンバーは激怒。 また、以前から燻ぶっていた事務所「りぼん」の営利第一主義的な経営姿勢に対する不信感、RCへの低待遇の不満に加えて、これらずさんな原盤管理に怒りが爆発。 アルバム『FEEL SO BAD』の曲中で所属事務所とその社長を公然と批判し一時訴訟沙汰となる。 、トラブルの末、「りぼん」から独立。 自分たちの事務所「うむ」を設立。 を導入し、治療を続けていた忌野の肝臓が奇跡的に回復、心身ともに充実するようになる。 仲井戸が初ソロアルバム『THE仲井戸麗市BOOK』をリリース。 各ソロ活動等(停滞期) [ ]• 、イギリスのパブ・ロック界の中心人物、率いるのメンバーを中心に迎えた忌野の初ソロアルバム『RAZOR SHARP』がリリースされる。 忌野は同メンバーを従え全国ツアーも行う。 それに伴いRCの活動は一時休止状態となる。 (当初、RCとしてイギリスでレコーディングする話が持ち上がっていたが、忌野以外のメンバーが海外録音を拒否したためとも言われる。 ) 『MARVY』 〜 『コブラの悩み』(激動期・その2) [ ]• 、・反核をテーマにしたカバーアルバム『』とシングル「ラヴ・ミー・テンダー」を制作するも、発売元の の親会社・東芝が原子力関連企業でもあったため、歌詞の内容が問題視され急遽発売中止になる。 東芝EMIは全国紙 、、 で「素晴らしすぎて発売できません」とのを打つ(これは忌野が東芝から「企業の倫理とかいうのがあってどうも…素晴らしすぎて出せない」と発売の中止を告げられたことを受け、「素晴らしすぎて出せないっていうんだったら、それを新聞に出してくれ」と言ったことによる。 急遽レコード会社を古巣キティレコードに変えて発売されたこのアルバムは、話題性もありRC初の1位を獲得する。 この事件に関しては、『』の頁に詳細を記述。 アルバム『COVERS』の発売中止から、2ヵ月後の8月15日にライブを行い、この模様を収録したライブアルバム『コブラの悩み』をその年の12月にリリース。 演奏曲目はほとんどが怒りをストレートに表現したもので、「発売中止騒動の時のマスコミの対応」や「東芝」を痛烈に批判した(ただし、このアルバム自体は東芝EMIからリリースされている)。 ライブアルバム『コブラの悩み』には、スタジオ録音である「君は Love Me Tender を聴いたか?」がアルバムラストに曲の冒頭部分のみ収録されている。 この曲は、発禁問題を引き起こした「Love Me Tender」に対するセルフ・アンサーソングであるが、核心部分を語ろうとする「あの歌は、反…」という歌詞のところで音声が途切れ終わっている。 なお、のクリスマス武道館ライブではこの曲がフルバージョンで披露された。 内容は、「反原発ロック」などというレッテルを貼られた曲に対するシンパシーや、たかが一曲の歌ごときにレコード会社やマスコミなどの大企業が政治力まで使い圧力をかけてくることやことほどさように大騒ぎすることの愚かさ、日本の社会や報道機関の未熟さを皮肉った内容となっている。 フルバージョンはラジオ放送で何度かオンエアされた事はあったものの、結局今日に至るまでCD化されていない。 『Baby A Go Go』(終焉期) [ ]• 、メンバー間での話し合いの末、Gee2woが脱退(趣味に夢中になり過ぎ練習をすっぽかすことが度々あったこと、小林らとの音楽的な志向性の違いがあったことなどが主要因と言われている)。 以降、キーボードにはVOW WOWの厚見玲衣がサポートで参加することになる。 『Baby a Go Go』の制作中、ミキサー(、)と忌野が、曲によってドラマーを春日博文や外部のドラマーに変えたいという方針を打ち出したことに新井田が猛反発し、RCを脱退する。 結果、RCは清志郎、仲井戸、小林の3人編成となる。 忌野、仲井戸、小林の3人で現時点でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。 ヘンリー・ハーシュら外国人プロデューサーを迎えアナログ制作にこだわって作られたこのアルバムは高い評価を得る。 1990年、日本武道館でラストライブを開催し、翌年1月に無期限活動休止。 その後 〜 現在 [ ]• 活動休止以来RC名義の活動はないものの、忌野と仲井戸はライブでたびたびRC時代の楽曲を共演している。 また、忌野のソロアルバムに仲井戸がゲスト参加したり、楽曲を共作したりしている。 RCゆかりのメンバーのみで再集結し、圧倒的な演奏力で健在ぶりを見せ付けた。 2008年2月のライブ『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館』にて忌野、仲井戸、新井田、厚見、梅津、片山らの共演が実現。 メンバー紹介で忌野が新井田の名前を告げると日本武道館がひときわ大きな歓声に包まれた。 その他のエピソード [ ]• アルバム『』は、(シングル)盤で発売した曲を集めた編集盤。 EPの曲を集めて作った(アルバム)だから『EPLP』。 これに関連し忌野は、音楽メディアがからに切り替わった当時、「そのうちに『ABCD』っていうCDを誰か出すんじゃないか」と言っていたが、後年自身でミニアルバム『abcd』を出している。 アルバム『COVERS』以前からも忌野が書く歌詞は再三物議をかもしている。 シングル「ボスしけてるぜ」は、ボス(経営者)に『給料を上げてくれないとやる気が起こらない』と平社員の青年が懇願する内容。 この歌詞に関する中小企業の経営者たちからの苦情により銀座地区など歓楽街で流されるで放送禁止になる。 アルバム『BLUE』に収録の「あの娘のレター」は曲中「ポリ公」という歌詞がに引っかかったためその部分の音声にノイズが被せてある。 歌詞カードでも伏字にしてあるが、「ライブでは勝手に歌わせていただきます」という旨の注釈がついている。 「」は、フォーク時代からの重要なレパートリー曲でありアルバム『シングル・マン』に収録予定だったが、タイトルが忌み嫌われ収録を見送られた。 結局正式にレコード化されたのは、その7年後にリリースされたアルバム『OK』においてである。 なお、歌詞の内容は、自分の元を去った恋人への失望からその恋人との思い出のある街には二度と行くことはない、そこは自分の心が死んだところであり心のお墓が立っている、というものである。 ライブアルバム『the TEARS of a CLOWN』に収録された「君はそのうち死ぬだろう」は、暗黒期に気味となった旧友を逆説的に励ますために作られた曲であったが、『内容的にまずい』ということで歌詞カードには載せられなかった。 曲に歌われた(実際の坂の名前は「たまらん坂」)は、東京都との境にある実在する。 RCファン・清志郎ファンの聖地となっている。 近くの大学生が通学時に上るときに「坂がきつくてたまらん!」と言ったことが地名の由来。 以前は坂の途中の石垣にRCファンによって「清志郎」と書かれた落書きがあったが、現在は取り壊されマンションが建っている。 忌野の実家があるは位置的にはの北側にあたり、「たまらん坂」はJR中央線を挟んで反対側の・間南側に位置する。 『PLEASE』収録の「あきれて物も言えない」は、RCの暗黒期に事務所のスタッフにハッパをかけようとして泉谷しげるが言った「清志郎はもうだめだよ、立ち直れねえよ」という言葉を人づてに歪曲して聞いた忌野が激怒して作った曲。 歌詞の「どっかの山師が 俺が死んでるって言ったってさ」の部分を、ライブでは足の不自由な泉谷のことをあからさまに侮蔑する歌詞に替えて歌っていた。 、RC20周年記念で出版された『遊びじゃないんだっ! ()』の表紙および帯には、「RCサクセションの40年・上巻」「下巻は2010年の発売です」と書かれていたが、ジョークだったのか下巻は2014年現在も発売されていない。 清志郎のソロアルバム『夢助』に収録された「激しい雨」は、忌野と仲井戸が共作した楽曲。 歌詞の中で「RCサクセションが 聴こえる RCサクセションが 流れてる」と歌っている。 仲井戸本人によると、がかつて在籍していたバンド について歌う「バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン」という曲に感銘を受け、ラジオから『RCサクセションが 聴こえる』という歌詞が、一発で忌野と分かる声で聞こえたら面白いのではないか、というきっかけで歌詞が作られたという。 のは、1980年7月5日のRCライブを観て、バンド結成を思い立ったとインタビューで語っている。 その他の詳細エピソードについては、の頁を参照。 Baby ダンスパーティー 38位 15th ベイビー! 逃げるんだ。 2nd 1983年のクリスマス武道館公演。 企画、演出は。 なお「横浜ベイ」にが出演している。 4th 1986年、恒例の夏の日比谷野音ライブの模様を収録。 4DAYSの映像を巧みに組み合わせまとめてある。 5th 1988年8月の日比谷野音ライブの映像。 『COVERS』騒動の直後のライブであり、会場全体が異様な熱気に包まれている模様が収められている。 6th 1990年9月の日比谷野音ライブの映像。 RC20周年記念にふさわしい選曲となっている。 なお、新井田、Gee2wo脱退後であるためドラムとキーボードはそれぞれ春日と厚見が務めている。 7th レコード会社の倉庫に眠っていたアルバム『RHAPSODY』の映像版。 10th テレビ神奈川で放送されていた『ファイティング80's』で放映された1980年〜1981年のライブ映像。 11th テレビ神奈川で放送されていた『』の1972年4月〜9月のパフォーマンスを収録。 未発表曲 [ ] 初期(アコースティック時代) 曲名 概要 ぼくの家の前の道を今朝も小学生が通います 後年、清志郎のソロとしても歌われているが元々はRCの曲。 「悲しいことばっかり」に収録 やせこけた女 学生時代、痩せた女につきまとわれた清志郎の実体験を元にした曲。 オキナワ・ライン 結成当初に作られた。 を意識したインスト曲。 当時、破廉のお気に入りの曲だった。 貧乏絵描き もうすぐ帰る 金曜日の大雪 仕事なので ボーカルは破廉ケンチ。 「悲しいことばっかり」に収録 昆虫採集 黄色いお月様 「悲しいことばっかり」に収録 一日 「悲しいことばっかり」に収録 黙っていておくれ 中期(暗黒期) 曲名 概要 山を降りて出かける日 ぼくの記憶では パーティーをひらこう 君は素敵 女はきみの邪魔をする 一五〇パーセント・オレンジジュース 別れたあとで ダーリン・カセット こたつバラード 重労働 洗たくの自由 ぼくはラジオが大好き ベルおいで 「悲しいことばっかり」に収録 アルバイト 忌野の著作「十年ゴム消し」に登場する曲。 うかれたクリスマス レディー・レイ 作詞はが担当している。 はじめまして よろしく ぼくの眠るところ ゆうべいい事 後期(復活・ブレイク期〜終焉期) この節のが望まれています。 タイアップ [ ] 曲名 タイアップ スローバラード 映画『』主題歌 上を向いて歩こう 映画『』主題歌 雨あがりの夜空に 映画『』挿入歌 こんなんなっちゃった X7 CMソング ベイビー! 逃げるんだ。 『』CMソング すべてはALRIGHT YA BABY CMソング サン・トワ・マミー 系ドラマ『』エンディングテーマ 松竹映画『』主題歌 I LIKE YOU CMソング スローバラード RE-MIXED VERSION 東宝映画『! アイ・オー 』主題歌 空がまた暗くなる 系ドラマ『』主題歌 体操しようよ 映画「体操しようよ」主題歌 出演 [ ] RCサクセションとしての出演番組を記載。 個人としての出演も多かった清志郎に関しては、別項を参照。 テレビ番組 [ ]• (1969年5月7日、) - ゲスト出演• (1972年4月9日〜1973年4月8日、1976年4月25日、)72年4月の番組開始から翌年4月にかけてレギュラー出演。 その後、度々ゲストとして出演した。 (1979年、) - ゲスト出演• (1979年、) - ゲスト出演• (1979年、) - ゲスト出演• (1979年、) - ゲスト出演• (1979年8月、) - ゲスト出演• (1979年8月16日、TBS) - ゲスト出演• 解散コンサート (1979年12月、) - と共にゲスト出演• (1980年、) - ゲスト出演• (1980年、) - ゲスト出演• (1980年7月13日、) - ゲスト出演• (1980年8月17日、) - ゲスト出演• (1980年9月13日、) - ゲスト出演• (1980年10月26日、) - ゲスト出演• (1980年11月8日、) - ゲスト出演• (1980年11月21日、テレビ朝日) - 泉谷しげる、と共にゲスト出演• (1981年2月16日、) - ゲスト出演• (1981年2月18日、フジテレビ) - ゲスト出演• (1981年7月30日、フジテレビ)• (1981年12月18日、TVK) - ゲスト出演• (1983年8月5日、TBS) - ゲスト出演• (1983年8月20日、)• (1983年8月27日、NHK) - ゲスト出演• (1984年8月30日、フジテレビ)• (1985年6月7日、フジテレビ) - ゲスト出演• (1986年、) - ゲスト出演• (1986年8月15日、) - ゲスト出演• (1986年12月13日、フジテレビ) - ゲスト出演• (1987年6月4日、TVK) - ゲスト出演• (1988年5月10日、NHK)• (1988年12月30日、NHK) - 短縮版• (1989年5月27日、NHK) - ゲスト出演• JAPAN (1990年、TVK) - ゲスト出演• '90 (1990年8月12日、NHK仙台) - ゲスト出演• (1990年8月19日、日本テレビ) - ゲスト出演 脚注 [ ] []• には、 1 清志郎、林小、破廉 1968〜1977 2 忌野、林小、仲井戸、新井田、小川 1977〜1979 3 忌野、小林、仲井戸、新井田、Gee2wo 1980〜1989 4 忌野、仲井戸、小林、春日、厚見 1989〜1990 以上4つの形態が「RCサクセション」として紹介されている。 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談• エレキ化後のブレイク期に「ある日(バンドを)作成しよう」をもじった言葉遊びという説が広く流布したが、現在ではこれはテレビ番組で清志郎が冗談で発言したものがそのままメディアで取り上げられたことによる誤解であるとされている。 その他、商業的成功者を揶揄する「ラジオコントロールされたサクセス(成功者)」の意味(ただし「success」は成功の意味だが、「succession」は連続や継承という意味になる)など、その奇妙なバンド名ゆえに名前の由来に関しては諸説多数が流れている。 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して• 泉谷しげる自伝『わが奔走』(ロッキングオン)• 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談• ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」• 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談• 『GOTTA! 忌野清志郎』• 『GOTTA! 忌野清志郎』• 生卵(河出書房新社)• 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」• 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して• 日々の泡立ち 真説RCサクセション• 日々の泡立ち 真説RCサクセション• 「メンバー紹介の時のお客さんからの反応、ドラマー冥利につきました。 自分自身としてはちょっと意外な感じでしたが、嬉しい驚きでした。 応援してくれた皆さん、ありがとうございました。 」新井田耕造オフィシャルHPより。 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談• 『忌野清志郎 This Time』 2006年放送フジテレビ721のドキュメンタリー 内、仲井戸談 参考文献 [ ]• 愛しあってるかい( 1981年)• 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説風エッセイ、 1987年・ 2000年)• GOTTA! 忌野清志郎(忌野清志郎伝、、1988年)• 遊びじゃないんだっ(RCサクセション20周年記念、マガジンハウス、1990年)• 日々の泡立ち 真説RCサクセション(インタビュー集、、1991年)• 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」(、1992年)• 生卵(忌野清志郎デビュー25周年記念 、1995年)• 瀕死の双六問屋(忌野によるエッセイ集、、2000年)• ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」(、2002年)• 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して(、2006年) ほか 外部リンク [ ]•

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初期のRCサクセション

サクセション

RCサクセション 出身地 ・ ジャンル 活動期間 - レーベル 事務所 りぼん うむ 共同作業者 メンバー (・) (・ボーカル) (ギター・ボーカル) (ギター・) () 旧メンバー (ギター・ボーカル) (ドラムス) (ギター) (キーボード・ギター) RCサクセション(アールシーサクセション、RC SUCCESSION)は、日本の。 をリーダーとし [ ]、「King of Rock」「King of Live」の異名をとるなど「日本語ロック」の成立や、現在日本で普通に見られるロックコンサート、ライブパフォーマンスのスタイルの確立に大きな影響を及ぼした。 実際、RCサクセション 以下、特段の理由がない限り「RC」と略す に影響を受けたと公言するミュージシャンは非常に多い。 彼らが発信するファッションや言動などは音楽業界にとどまらず若者の間でサブカルチャー的存在とまでなり、1980年代を中心にまさに時代を席捲した。 その後、より無期限の活動休止状態に入ったまま復活することはなく、2009年に忌野が死去したことにより、事実上バンドは解散となった。 概要 [ ] メンバー [ ] 忌野清志郎公式HP「地味変」より。 楽曲 [ ] 特徴 [ ] 基本的には忌野が作詞・作曲した楽曲をバンドでアレンジして演奏、レコーディングする。 自作・自演し、アレンジまでするというスタイルは今でこそ珍しくないが、1970年代初期ではまだ異例だった。 忌野1人による制作曲のほか、時期によっては仲井戸や小林、Gee2woらとそれぞれ共作もしている。 音楽性、歌詞の世界観などは「」の頁を参照。 また、アルバム『BLUE』以降は、仲井戸が作詞・作曲しボーカルをとった曲が1枚のアルバムに1曲以上収録されている。 バンド名の由来 [ ] バンド名の「RC」とは、忌野自身が「ある日 RC バンドを作成 サクセション しよう」からだとジョークで言ったこともあったが、実際は「The Remainders of Clover リメインダーズ・オブ・クローバー。 和訳:クローバーの残り物 」の略である。 来歴 [ ] 、中学の同級生だった忌野、小林、破廉の3人でバンド「ザ・クローバー(The Clover)」を結成する。 、高校進学によりザ・クローバー解散。 忌野と小林は、上級生の武田清一(のちに「」でデビュー)を迎えて「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー (The Remainders of the Clover 「クローバーの残党」の意))」を結成。 初めてギャラをもらう仕事をする。 、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」が自然消滅した後、破廉がバンドに戻りバンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー・サクセション (The Remainders of the Clover succession 「クローバー〜からの継続」の意)」の省略形から「RCサクセション」と命名する。 RCサクセション誕生。 、テレビ番組「」 のオーディションに合格。 続いて、主催の「」オーディションで第3位に。 この模様を収録した盤が初めての公式音源となる。 収録曲は「泥だらけの海」。 、「」で東芝音工(現)よりシングルデビュー。 、RCが活動拠点の一つとしていた渋谷のライブハウス「」で当時フォークグループとして活動していた仲井戸麗市と出会う。 、ラジオ番組「」「 後に、『』に改題 」 などへの出演を始める。 3rdシングル「ぼくの好きな先生」がヒット。 1stアルバム「初期のRCサクセション」をリリース。 、当時のマネージャーが事務所 に造反、独立してプロダクション「」を設立。 RCはその騒ぎに巻き込まれ、ホリプロ内で仕事を干される。 、ホリプロダクションから「りぼん」へ移籍。 前年にすでに制作済みだった3rdアルバム「」がようやくリリースされるも、1年後にとなってしまう。 破廉は精神状態が不安定になり、ギターが弾けなくなる。 、破廉が正式脱退。 さらに、新井田、仲井戸が正式に加入し、RCの黄金期を形成するバンドの基礎が完成する。 忌野は髪を短く切って逆立て、派手な衣裳にどぎついメイクをしてステージに出るようになる。 、春日に替わって小川が加入。 RCはそのライブパフォーマンスが評判となり、マスコミでたびたび取り上げられるようになる。 の前座として初めてのステージに立つ。 音楽評論家のらが3rdアルバム「シングル・マン」の再発売を懇願するため「シングルマン再発実行委員会」を発足、との折衝が繰り返された結果、自主制作というかたちで300枚限定で異例の再発売が決定する。 当初は国立の「レコード・プラント」、青山の「」の2店のみでの販売だった。 、「雨あがりの夜空に」発売記念として渋谷のライブハウス「」で4日連続のコンサートを開催。 のべ800人の観客を動員し、同ライブハウスの動員記録を打ち立てる。 での、とのジョイントコンサートも約2000人の観客動員を達成、RC人気に火がつく。 「シングル・マン」が正式に再発売される。 このアルバムは、1980年6月、東京・久保講堂におけるコンサートの実況録音盤である。 同アルバムリリースと前後し、小川が脱退。 替わって、それまでサポートメンバーとして参加していたGee2woが正式メンバーとなる。 、初の日本武道館単独公演。 この年を始めとしてその後10年間連続で武道館クリスマスコンサートを行う。 この年はその他にも年間100本近いコンサートを行う。 、忌野が(当時)と組んで発表したシングル「」が82春のキャンペーンソングとしてヒット。 では、どぎつい化粧をして男同士でキスをするなど過激なパフォーマンスを展開、時代を席巻する。 に移籍。 自身の「BARCA」を設立。 、事務所「りぼん」から独立。 自分たちの事務所「うむ」を設立。 西武劇場(現)で独立記念コンサート「スーパーエイプリルフール」を開催(、坂本龍一、、三浦友和らがゲスト参加)。 、東芝EMIより発売予定だったシングル「ラヴ・ミー・テンダー」とアルバム『(カバーズ)』が、収録曲の歌詞の問題で発売中止となる。 同シングルとアルバムは結局古巣キティレコード(現)から発売され、RCとして初のチャート1位を獲得する。 、HARD TIMES LIVE ツアーはリリースされていない新曲中心という異例の構成で行われる。 また、レコード会社に対する不満からステージ上で「録音自由化」を宣言。 、Gee2wo、新井田が相次いで脱退。 現段階でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。 続くツアーは札幌、仙台、福岡、名古屋、大阪および日本武道館のみ行い、以降(翌年)のツアーはすべてキャンセルされる。 1月、無期限活動休止に入る。 詳細・エピソード [ ] 結成 〜 デビュー「宝くじは買わない」 バンド黎明期 [ ]• 活動拠点としていた「青い森」「」などのライヴハウスで、古井戸、泉谷しげるらと親交を深める。 泉谷は当時のRCのことを「RCは凄まじかったね。 アコースティックギターのリズム隊でありながらロックだったわけよ。 ウッドベースなんかスリリングでさ、すんげえソウルフルなんだよ」と評している。 すでにこのころのセットリストには、「ファンからの贈り物」「ダーリン・ミシン」「うわの空」「マリコ」「君が僕を知ってる」「お墓」等、後年レコーディングされた曲のタイトルが見られる。 デビューシングル「」は、当時のマネージャーであった金田が連れてきた伊勢田トリオというグループをバックに演奏したが、最終的にレコードになったときにはスタジオミュージシャンのテイクが使われた。 『初期のRCサクセション』 〜 『楽しい夕に』 (アコースティック期) [ ]• 1stアルバム『初期のRCサクセション』は、最終的なマスタリング作業にメンバーが立ち会わせて貰えず、完成したレコードの音源に自分たちの意図しない勝手なアレンジがほどこされていたために不満を感じる。 そのため2ndからは自分たちの演奏を主体としたレコード作りを始め、後年まで外部プロデューサーの介入を避けるようになる。 1970年代初期の未発表ライブ音源が『ロック画報2002年第10号』の付録CDに収録されている。 曲は、「つまらない仕事」「ぼくとあの娘」「忙しすぎたから」「内気な性格」「もっと何とかならないの?」「ぼくの自転車のうしろに乗りなよ」の6曲。 選曲は清志郎自身が行い、には清志郎と破廉が立ち会った。 忌野の高校の同級生である俳優のは、『初期のRCサクセション』に収録の「言論の自由」にで参加している。 三浦はステージにもよく加わることがあり、また一時期破廉と同居するなどかなりRCと親交が深かった。 忌野が作詞・作曲した「指輪をはめたい」を元にして、と「帰れない二人」を共作。 もう1曲「待ちぼうけ」を共作し、この2曲が収録された陽水のアルバム『』 が日本音楽史上初のミリオンセラーLPとなる。 1974年、ホリプロダクションの奥田義行プロデューサーが、当時大ブレイク中だった陽水を連れてホリプロを離れ、独立事務所「りぼん」を設立。 この造反行為に激怒したホリプロは、奥田の子飼いだったRCの「りぼん」移籍を阻止。 RCはスタッフも仕事も与えられず飼い殺し状態となる。 この頃、3枚目のアルバム『シングル・マン』を録音するも、事務所の移籍トラブルによりお蔵入りになってしまう。 『シングルマン』 〜 「わかってもらえるさ」(暗黒期) [ ]• 、仕事がほとんどなくなり、活動休止状態になる。 、ホリプロとの契約が切れ、正式に「りぼん」に移籍。 レコード会社を東芝音工からポリドールに移し、3年1ヵ月ぶりのシングル「」、3年4ヵ月ぶりの3rdアルバム『』をリリース、さらにキティレーベル 後のキティレコード)に移籍してシングル「わかってもらえるさ」を発売するも、すぐにそれらのレコードは廃盤となる。 アルバム『』には契約上クレジットされなかったが、や、らが参加していた。 また、「わかってもらえるさ」ではメンバーに破廉がクレジットされているものの、破廉は極度の鬱状態でギターが弾けず、ギターはすべて忌野が弾いた。 また、アルバムには契約の問題で上記のゲストミュージシャンを表記できなかった為「このレコードは世界的ミュージシャンが豊富に使用されておりますので安心してご利用ください」と書いてある。 アルバム『』のジャケットに使われているイラストは(金子出版)のもの。 元本は忌野自身が探してきた。 なお、当アルバムのジャケットに使われているRCサクセションのロゴも忌野がデザインしている。 5万円で買った忌野の愛車クーペが廃車となる。 のアルバム「氷の世界」に提供した二曲の印税で買ったと言われる。 この車をモデルとしてこの頃「雨あがりの夜空に」の歌詞が書かれた。 その後も忌野は2台続けて中古のサニークーペを購入したが、これは当時一番安い中古車だったからである。 当時唯一の活動と言ってもよかったのが他のミュージシャン(、等)の前座であったが、メインアクト目当てで来ている観客からは「クソッタレ」「早く消えろ」等の罵声を浴びせられることが少なくなかった。 の前座で出演した際にはRCが登場するやいなや観客から「帰れ」コールが浴びせられたため、忌野が客をからかって「矢沢B吉でーす。 永ちゃんはいま楽屋でクソしてるんで僕らがやりまーす」と発言。 客席は大混乱となり、演奏中絶えず「死ね」など怒号のような野次を喰らう。 破廉ケンチ、脱退(実際は破廉の鬱症状があまりにも酷く、それが原因でエレキギターが弾けない事を見かねた忌野がクビにした)その後はジャズ・ギタリストの阿部昇がサポートメンバーとして参加した。 頃から当時の、のをサポートギタリストに迎え渋谷のライブハウス「」を中心に活動。 若年層を中心に絶大な支持を得てライブは連日連夜満員となる。 同時期にドラマーのが加入。 当時、清志郎は「シングル・マン」以降の暗黒期に行き詰まって複雑なコード進行の曲ばかり作ってしまう悪循環に陥っていた反省から、シンプルなコード進行の曲であってもロックのダイナミズムを持つの楽曲研究を重ねた。 この頃、のに影響を受け、それまで長くしていた髪を切り落とす。 ステージでは髪の毛を立てたり奇抜なメイクを施すようになった。 「ステップ! 」 〜 『BLUE』(復活・ブレイク期) [ ]• 7月21日、2年8ヵ月ぶりのシングル「」を発売し、再デビューする。 しかしこのシングルも、まだメンバーの演奏力を信用しきれていなかった制作担当者によりスタジオミュージシャンのテイクが採用されている。 8月、NTV「紅白歌のベストテン」に出演。 音楽評論家のが音頭を取って「シングルマン」再発実行委員会が発足する。 深夜ラジオでの放送が増える。 この年積極的にステージを求め、各地の大学祭に多数出演している。 11月16日、で行われた古井戸の解散コンサートで仲井戸麗市の正式加入が発表される。 1月21日「雨あがりの夜空に」発売。 1月『「雨あがりの夜空に」発売記念コンサート』を渋谷で開催、4日間連日満員で屋根裏の観客動員記録を塗り替え話題となる。 4月久保講堂で「RHAPSODY」録音。 5月シングル「ボスしけてるぜ」、6月アルバム「RHAPSODY」、10月シングル「トランジスタ・ラジオ」、12月アルバム「PLEASE」と、立て続けにレコードを発売した。 忌野がの言葉を日本語にしてステージ上で観客へ呼びかけた「愛しあってるかい?」というフレーズは一世を風靡。 「清志郎ルック」の髪型やメイク、ファッションを身にまとった若者が出現するに至って、音楽誌のみならず『』や『』、『』、各新聞などでも取り上げられ、サブカルチャー的存在として社会現象とまでなる。 1980年付のの社説では、「RCのコンサートへ行けば、今日のわが国のあらゆるタイプの若者像を瞬時にして知ることができる」とまで評される。 アルバム『RHAPSODY』リリース後、バンド名を変えようという話もあったが、「いちおうこれだけ続いたバンド名なんだから」という理由で却下される。 レコードを連発、コンサートも満員の人気バンドでありながら、忌野は杉並区の風呂無しアパートに住んでいた。 81年に引っ越した後に入居したのがである。 『BEAT POPS』 〜 『King of Live』(絶頂期) [ ]• 編集長のもと、パンク、系の音楽雑誌となっていた雑誌『宝島』で、日本のロック・バンドのシンボル的存在として何度も取り上げられる。 特に清志郎は「ロック少年・ロック少女たちの的存在」となり、漫画等にも清志郎をモデルとしたと思われるキャラクターが描かれるようになる。 、レコード会社をロンドン・レコードに移籍。 、シングル「サマーツアー」がヒット。 TBS系テレビ「」に8位で一回のみランクインし、出演。 (8月5日)• 6月14日、フジテレビ系生放送番組「」に出演しサマーツアーを演奏した際、清志郎が曲の最中画面狭しと暴れまわったり、司会者とのトーク時より噛み続けていたガムをテレビカメラに向かって吐きかけるなどの悪ふざけをし、さらにそのことで視聴者へ謝罪する司会者の後ろで舌を出したり顔をしかめるなどしたことから、テレビ局に「ふざけるな」など抗議の電話が殺到。 その数は500本近くに上ったと言われている。 アルバム『』は、RC初の海外(ハワイ)録音。 飛行機嫌い、海外嫌いだった仲井戸が初めて海外に行った。 感想は「けっこういいとこだったよ。 外には出なかったけど」。 アルバム『OK』制作時頃より、忌野の体調が最悪の状態になる。 喫煙、ジャンクフード、ドラッグ漬けの生活といった長年の不摂生、ライブとレコーディングに追われる過密スケジュール、風呂なし極貧アパートでの不衛生な生活という低待遇など無理が重なったためと思われ、検査の結果、医者に「君の肝臓は一生治らない」と宣告される。 『FEEL SO BAD』 〜 『Tears of a Clown』(激動期・その1) [ ]• 、ロンドン・レコードの日本法人が成績不振のために解散し、ロンドン・レコードはポリドールレコードに吸収される。 RCは古巣の東芝EMIに移籍。 だが、それらの発売に関しミュージシャン当人たちに事前に許可が取られていなかったこと、RCが嫌悪していたNEWSレコードから発売されたことに対してメンバーは激怒。 また、以前から燻ぶっていた事務所「りぼん」の営利第一主義的な経営姿勢に対する不信感、RCへの低待遇の不満に加えて、これらずさんな原盤管理に怒りが爆発。 アルバム『FEEL SO BAD』の曲中で所属事務所とその社長を公然と批判し一時訴訟沙汰となる。 、トラブルの末、「りぼん」から独立。 自分たちの事務所「うむ」を設立。 を導入し、治療を続けていた忌野の肝臓が奇跡的に回復、心身ともに充実するようになる。 仲井戸が初ソロアルバム『THE仲井戸麗市BOOK』をリリース。 各ソロ活動等(停滞期) [ ]• 、イギリスのパブ・ロック界の中心人物、率いるのメンバーを中心に迎えた忌野の初ソロアルバム『RAZOR SHARP』がリリースされる。 忌野は同メンバーを従え全国ツアーも行う。 それに伴いRCの活動は一時休止状態となる。 (当初、RCとしてイギリスでレコーディングする話が持ち上がっていたが、忌野以外のメンバーが海外録音を拒否したためとも言われる。 ) 『MARVY』 〜 『コブラの悩み』(激動期・その2) [ ]• 、・反核をテーマにしたカバーアルバム『』とシングル「ラヴ・ミー・テンダー」を制作するも、発売元の の親会社・東芝が原子力関連企業でもあったため、歌詞の内容が問題視され急遽発売中止になる。 東芝EMIは全国紙 、、 で「素晴らしすぎて発売できません」とのを打つ(これは忌野が東芝から「企業の倫理とかいうのがあってどうも…素晴らしすぎて出せない」と発売の中止を告げられたことを受け、「素晴らしすぎて出せないっていうんだったら、それを新聞に出してくれ」と言ったことによる。 急遽レコード会社を古巣キティレコードに変えて発売されたこのアルバムは、話題性もありRC初の1位を獲得する。 この事件に関しては、『』の頁に詳細を記述。 アルバム『COVERS』の発売中止から、2ヵ月後の8月15日にライブを行い、この模様を収録したライブアルバム『コブラの悩み』をその年の12月にリリース。 演奏曲目はほとんどが怒りをストレートに表現したもので、「発売中止騒動の時のマスコミの対応」や「東芝」を痛烈に批判した(ただし、このアルバム自体は東芝EMIからリリースされている)。 ライブアルバム『コブラの悩み』には、スタジオ録音である「君は Love Me Tender を聴いたか?」がアルバムラストに曲の冒頭部分のみ収録されている。 この曲は、発禁問題を引き起こした「Love Me Tender」に対するセルフ・アンサーソングであるが、核心部分を語ろうとする「あの歌は、反…」という歌詞のところで音声が途切れ終わっている。 なお、のクリスマス武道館ライブではこの曲がフルバージョンで披露された。 内容は、「反原発ロック」などというレッテルを貼られた曲に対するシンパシーや、たかが一曲の歌ごときにレコード会社やマスコミなどの大企業が政治力まで使い圧力をかけてくることやことほどさように大騒ぎすることの愚かさ、日本の社会や報道機関の未熟さを皮肉った内容となっている。 フルバージョンはラジオ放送で何度かオンエアされた事はあったものの、結局今日に至るまでCD化されていない。 『Baby A Go Go』(終焉期) [ ]• 、メンバー間での話し合いの末、Gee2woが脱退(趣味に夢中になり過ぎ練習をすっぽかすことが度々あったこと、小林らとの音楽的な志向性の違いがあったことなどが主要因と言われている)。 以降、キーボードにはVOW WOWの厚見玲衣がサポートで参加することになる。 『Baby a Go Go』の制作中、ミキサー(、)と忌野が、曲によってドラマーを春日博文や外部のドラマーに変えたいという方針を打ち出したことに新井田が猛反発し、RCを脱退する。 結果、RCは清志郎、仲井戸、小林の3人編成となる。 忌野、仲井戸、小林の3人で現時点でのラストオリジナルアルバム『Baby a Go Go』をリリース。 ヘンリー・ハーシュら外国人プロデューサーを迎えアナログ制作にこだわって作られたこのアルバムは高い評価を得る。 1990年、日本武道館でラストライブを開催し、翌年1月に無期限活動休止。 その後 〜 現在 [ ]• 活動休止以来RC名義の活動はないものの、忌野と仲井戸はライブでたびたびRC時代の楽曲を共演している。 また、忌野のソロアルバムに仲井戸がゲスト参加したり、楽曲を共作したりしている。 RCゆかりのメンバーのみで再集結し、圧倒的な演奏力で健在ぶりを見せ付けた。 2008年2月のライブ『忌野清志郎 完全復活祭 日本武道館』にて忌野、仲井戸、新井田、厚見、梅津、片山らの共演が実現。 メンバー紹介で忌野が新井田の名前を告げると日本武道館がひときわ大きな歓声に包まれた。 その他のエピソード [ ]• アルバム『』は、(シングル)盤で発売した曲を集めた編集盤。 EPの曲を集めて作った(アルバム)だから『EPLP』。 これに関連し忌野は、音楽メディアがからに切り替わった当時、「そのうちに『ABCD』っていうCDを誰か出すんじゃないか」と言っていたが、後年自身でミニアルバム『abcd』を出している。 アルバム『COVERS』以前からも忌野が書く歌詞は再三物議をかもしている。 シングル「ボスしけてるぜ」は、ボス(経営者)に『給料を上げてくれないとやる気が起こらない』と平社員の青年が懇願する内容。 この歌詞に関する中小企業の経営者たちからの苦情により銀座地区など歓楽街で流されるで放送禁止になる。 アルバム『BLUE』に収録の「あの娘のレター」は曲中「ポリ公」という歌詞がに引っかかったためその部分の音声にノイズが被せてある。 歌詞カードでも伏字にしてあるが、「ライブでは勝手に歌わせていただきます」という旨の注釈がついている。 「」は、フォーク時代からの重要なレパートリー曲でありアルバム『シングル・マン』に収録予定だったが、タイトルが忌み嫌われ収録を見送られた。 結局正式にレコード化されたのは、その7年後にリリースされたアルバム『OK』においてである。 なお、歌詞の内容は、自分の元を去った恋人への失望からその恋人との思い出のある街には二度と行くことはない、そこは自分の心が死んだところであり心のお墓が立っている、というものである。 ライブアルバム『the TEARS of a CLOWN』に収録された「君はそのうち死ぬだろう」は、暗黒期に気味となった旧友を逆説的に励ますために作られた曲であったが、『内容的にまずい』ということで歌詞カードには載せられなかった。 曲に歌われた(実際の坂の名前は「たまらん坂」)は、東京都との境にある実在する。 RCファン・清志郎ファンの聖地となっている。 近くの大学生が通学時に上るときに「坂がきつくてたまらん!」と言ったことが地名の由来。 以前は坂の途中の石垣にRCファンによって「清志郎」と書かれた落書きがあったが、現在は取り壊されマンションが建っている。 忌野の実家があるは位置的にはの北側にあたり、「たまらん坂」はJR中央線を挟んで反対側の・間南側に位置する。 『PLEASE』収録の「あきれて物も言えない」は、RCの暗黒期に事務所のスタッフにハッパをかけようとして泉谷しげるが言った「清志郎はもうだめだよ、立ち直れねえよ」という言葉を人づてに歪曲して聞いた忌野が激怒して作った曲。 歌詞の「どっかの山師が 俺が死んでるって言ったってさ」の部分を、ライブでは足の不自由な泉谷のことをあからさまに侮蔑する歌詞に替えて歌っていた。 、RC20周年記念で出版された『遊びじゃないんだっ! ()』の表紙および帯には、「RCサクセションの40年・上巻」「下巻は2010年の発売です」と書かれていたが、ジョークだったのか下巻は2014年現在も発売されていない。 清志郎のソロアルバム『夢助』に収録された「激しい雨」は、忌野と仲井戸が共作した楽曲。 歌詞の中で「RCサクセションが 聴こえる RCサクセションが 流れてる」と歌っている。 仲井戸本人によると、がかつて在籍していたバンド について歌う「バッファロー・スプリングフィールド・アゲイン」という曲に感銘を受け、ラジオから『RCサクセションが 聴こえる』という歌詞が、一発で忌野と分かる声で聞こえたら面白いのではないか、というきっかけで歌詞が作られたという。 のは、1980年7月5日のRCライブを観て、バンド結成を思い立ったとインタビューで語っている。 その他の詳細エピソードについては、の頁を参照。 Baby ダンスパーティー 38位 15th ベイビー! 逃げるんだ。 2nd 1983年のクリスマス武道館公演。 企画、演出は。 なお「横浜ベイ」にが出演している。 4th 1986年、恒例の夏の日比谷野音ライブの模様を収録。 4DAYSの映像を巧みに組み合わせまとめてある。 5th 1988年8月の日比谷野音ライブの映像。 『COVERS』騒動の直後のライブであり、会場全体が異様な熱気に包まれている模様が収められている。 6th 1990年9月の日比谷野音ライブの映像。 RC20周年記念にふさわしい選曲となっている。 なお、新井田、Gee2wo脱退後であるためドラムとキーボードはそれぞれ春日と厚見が務めている。 7th レコード会社の倉庫に眠っていたアルバム『RHAPSODY』の映像版。 10th テレビ神奈川で放送されていた『ファイティング80's』で放映された1980年〜1981年のライブ映像。 11th テレビ神奈川で放送されていた『』の1972年4月〜9月のパフォーマンスを収録。 未発表曲 [ ] 初期(アコースティック時代) 曲名 概要 ぼくの家の前の道を今朝も小学生が通います 後年、清志郎のソロとしても歌われているが元々はRCの曲。 「悲しいことばっかり」に収録 やせこけた女 学生時代、痩せた女につきまとわれた清志郎の実体験を元にした曲。 オキナワ・ライン 結成当初に作られた。 を意識したインスト曲。 当時、破廉のお気に入りの曲だった。 貧乏絵描き もうすぐ帰る 金曜日の大雪 仕事なので ボーカルは破廉ケンチ。 「悲しいことばっかり」に収録 昆虫採集 黄色いお月様 「悲しいことばっかり」に収録 一日 「悲しいことばっかり」に収録 黙っていておくれ 中期(暗黒期) 曲名 概要 山を降りて出かける日 ぼくの記憶では パーティーをひらこう 君は素敵 女はきみの邪魔をする 一五〇パーセント・オレンジジュース 別れたあとで ダーリン・カセット こたつバラード 重労働 洗たくの自由 ぼくはラジオが大好き ベルおいで 「悲しいことばっかり」に収録 アルバイト 忌野の著作「十年ゴム消し」に登場する曲。 うかれたクリスマス レディー・レイ 作詞はが担当している。 はじめまして よろしく ぼくの眠るところ ゆうべいい事 後期(復活・ブレイク期〜終焉期) この節のが望まれています。 タイアップ [ ] 曲名 タイアップ スローバラード 映画『』主題歌 上を向いて歩こう 映画『』主題歌 雨あがりの夜空に 映画『』挿入歌 こんなんなっちゃった X7 CMソング ベイビー! 逃げるんだ。 『』CMソング すべてはALRIGHT YA BABY CMソング サン・トワ・マミー 系ドラマ『』エンディングテーマ 松竹映画『』主題歌 I LIKE YOU CMソング スローバラード RE-MIXED VERSION 東宝映画『! アイ・オー 』主題歌 空がまた暗くなる 系ドラマ『』主題歌 体操しようよ 映画「体操しようよ」主題歌 出演 [ ] RCサクセションとしての出演番組を記載。 個人としての出演も多かった清志郎に関しては、別項を参照。 テレビ番組 [ ]• (1969年5月7日、) - ゲスト出演• (1972年4月9日〜1973年4月8日、1976年4月25日、)72年4月の番組開始から翌年4月にかけてレギュラー出演。 その後、度々ゲストとして出演した。 (1979年、) - ゲスト出演• (1979年、) - ゲスト出演• (1979年、) - ゲスト出演• (1979年、) - ゲスト出演• (1979年8月、) - ゲスト出演• (1979年8月16日、TBS) - ゲスト出演• 解散コンサート (1979年12月、) - と共にゲスト出演• (1980年、) - ゲスト出演• (1980年、) - ゲスト出演• (1980年7月13日、) - ゲスト出演• (1980年8月17日、) - ゲスト出演• (1980年9月13日、) - ゲスト出演• (1980年10月26日、) - ゲスト出演• (1980年11月8日、) - ゲスト出演• (1980年11月21日、テレビ朝日) - 泉谷しげる、と共にゲスト出演• (1981年2月16日、) - ゲスト出演• (1981年2月18日、フジテレビ) - ゲスト出演• (1981年7月30日、フジテレビ)• (1981年12月18日、TVK) - ゲスト出演• (1983年8月5日、TBS) - ゲスト出演• (1983年8月20日、)• (1983年8月27日、NHK) - ゲスト出演• (1984年8月30日、フジテレビ)• (1985年6月7日、フジテレビ) - ゲスト出演• (1986年、) - ゲスト出演• (1986年8月15日、) - ゲスト出演• (1986年12月13日、フジテレビ) - ゲスト出演• (1987年6月4日、TVK) - ゲスト出演• (1988年5月10日、NHK)• (1988年12月30日、NHK) - 短縮版• (1989年5月27日、NHK) - ゲスト出演• JAPAN (1990年、TVK) - ゲスト出演• '90 (1990年8月12日、NHK仙台) - ゲスト出演• (1990年8月19日、日本テレビ) - ゲスト出演 脚注 [ ] []• には、 1 清志郎、林小、破廉 1968〜1977 2 忌野、林小、仲井戸、新井田、小川 1977〜1979 3 忌野、小林、仲井戸、新井田、Gee2wo 1980〜1989 4 忌野、仲井戸、小林、春日、厚見 1989〜1990 以上4つの形態が「RCサクセション」として紹介されている。 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談• エレキ化後のブレイク期に「ある日(バンドを)作成しよう」をもじった言葉遊びという説が広く流布したが、現在ではこれはテレビ番組で清志郎が冗談で発言したものがそのままメディアで取り上げられたことによる誤解であるとされている。 その他、商業的成功者を揶揄する「ラジオコントロールされたサクセス(成功者)」の意味(ただし「success」は成功の意味だが、「succession」は連続や継承という意味になる)など、その奇妙なバンド名ゆえに名前の由来に関しては諸説多数が流れている。 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して• 泉谷しげる自伝『わが奔走』(ロッキングオン)• 『GOTTA! 忌野清志郎』中、忌野談• ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」• 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談• 『GOTTA! 忌野清志郎』• 『GOTTA! 忌野清志郎』• 生卵(河出書房新社)• 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」• 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して• 日々の泡立ち 真説RCサクセション• 日々の泡立ち 真説RCサクセション• 「メンバー紹介の時のお客さんからの反応、ドラマー冥利につきました。 自分自身としてはちょっと意外な感じでしたが、嬉しい驚きでした。 応援してくれた皆さん、ありがとうございました。 」新井田耕造オフィシャルHPより。 『GOTTA! 忌野清志郎』中、清志郎談• 『忌野清志郎 This Time』 2006年放送フジテレビ721のドキュメンタリー 内、仲井戸談 参考文献 [ ]• 愛しあってるかい( 1981年)• 十年ゴム消し(忌野清志郎による私小説風エッセイ、 1987年・ 2000年)• GOTTA! 忌野清志郎(忌野清志郎伝、、1988年)• 遊びじゃないんだっ(RCサクセション20周年記念、マガジンハウス、1990年)• 日々の泡立ち 真説RCサクセション(インタビュー集、、1991年)• 月刊カドカワ・1992年3月号「総力特集 清志郎の遺言」(、1992年)• 生卵(忌野清志郎デビュー25周年記念 、1995年)• 瀕死の双六問屋(忌野によるエッセイ集、、2000年)• ロック画報・2002年10号「特集 RCサクセションに捧ぐ」(、2002年)• 別冊宝島 音楽誌が書かないJポップ批評 忌野清志郎のブルースを捜して(、2006年) ほか 外部リンク [ ]•

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お支払方法 現金の他に銀行振込が可能です。 ご契約 メール、電話などでの申込み後4日以内にお知らせした金額をお振込み頂いた日を契約成立日とさせて頂きます。 申込みのみの場合未成立となりますのでご注意ください。 動物販売時説明書(別紙)の全文をお読み頂き、ご了解の上、署名又は捺印を頂き、返送用の確認書を郵送にてお送り頂きます。 (動物の愛護及び管理に関する法律) 予約販売 成長前の幼犬は、予約販売とさせて頂きます。 予約方法は子犬確認後4日以内に半額をお振込み頂き、入金確認後、予約成立とさせて頂きます。 ただし子犬に重大な問題が発生し、お引渡しが不可能な場合は全額ご返却させて頂きます。 お引渡し 生後55日以後をお引渡し可能日とし空輸、陸送、ご来店でのお引渡しが可能です。 尚お送りする場合は送料、ケージ代交通費は別途お預かりさせて頂きます。 ワクチン1回目のワクチンは当社で接種させて頂き2回目以降はお客様の負担とさせて頂きます。 キャンセル お客様の都合により子犬お渡し前のキャンセルは半額を申し受けます。 またお渡し後は子犬に重大な欠陥が発生した時以外は返却出来かねますので熟慮のうえお決め下さい。 保証 お客様による過失を除き引渡し後30日以前に死亡した場合は獣医師の診断書をご提出頂き、後日同等の子犬をお渡しするか、販売価格の50%をご返却させて頂きます。

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