伊藤 史朗。 おしらせ

伊藤史朗

伊藤 史朗

略歴 [編集 ] 大森出身。 父は音楽家の。 「史朗」という名は、父の師であるが名付けたという。 に開催された第1回(第1回浅間高原(火山)レース)の250ccクラスに、で出場。 伊藤は当時16歳で、これがデビュー戦だったが、実績ある選手を抑えて優勝を果たした。 にに加入するが、全日本耐久ロードレース(浅間火山レース)の延期を受け、一時はヤマハを離れでの選手として活動した。 の第2回(第2回浅間火山レース)の250ccクラスに、ヤマハワークスライダーとして出場し、リタイヤ。 5月、アメリカはカリフォルニア州のカタリナ島で開催されたカタリナGP(世界GP戦ではない)にヤマハワークスライダーとして初出場。 ヤマハも伊藤も初の海外レースだったが、6位に入賞する。 同年8月の第1回の国際オープンクラスに、バルコム貿易(の輸入元)のBMWで出場し、6位。 の第3回全日本オートバイ耐久ロードレース(第3回浅間火山レース)では、バルコム貿易のBMWに乗って500ccクラスで優勝。 、(世界GP)に初出場。 マシンはBMW-RS500。 世界GP500ccクラスへの出場は日本人初。 バルコム貿易(BMW輸入元)のヘルマン・リンナー(ドイツのBMW本社から派遣されていた)が伊藤の実力を評価し、BMW本社に交渉して前年度のワークスマシン・RS(レンシュポルト)に乗るチャンスを与えたという経緯がある。 BMWのワークス活動は前年までで終了していたため、伊藤は個人出場(プライベート)という扱いになっている。 にヤマハが世界GPに初参戦。 伊藤はワークスライダーとして世界GPを転戦し、125ccと250ccの両クラスに出場した。 はヤマハが世界GPに出場しなかったため、伊藤も世界GPには参戦していない。 にヤマハが世界GP出場を再開したのに合わせ、再び各地を転戦。 伊藤はキャリアのピークを迎え、で優勝した(これはヤマハ初の世界GP優勝でもある)。 また、その他に2位入賞3回という成績を残し、わずか4戦限定の出場にもかかわらず、見事250ccクラス世界ランキング3位に輝いた。 の年頭に行われたマレーシアGP(世界GP戦ではない)でトップを走行中に転倒し頭部を強打。 それ以降、成績は低迷する。 この前後にと契約し、4輪レース出場を計画していたが、4輪の実戦には出場しなかった。 歌手として数枚のレコードも発表している。 に銃刀法違反(拳銃の密輸や所持)の容疑で逮捕された。 また薬物依存の傾向があるなど、私生活や素行に問題があったと指摘されている。 逮捕により、が制作していた番組「ある人生 240キロメートルの孤独」は放送されることなくお蔵入りとなった。 アメリカへ [編集 ] 銃刀法違反で逮捕・釈放後、アメリカに渡ったと言われる。 伊藤は「ヤマハを離れタクシーの運転手をした後、妻とともににフィリピンとハワイを経てロサンゼルスに渡った。 アメリカへは不法入国し、そのまま不法滞在し、市民権を取るために本来の妻とは別の白人と入籍していた」と告白している。 諸説あるが、その後は一度も日本に帰国せず、死去するまでアメリカで暮らしたと言われる。 銃刀法違反で執行猶予中に、アメリカに不法入国したため、市民権が取れず、日本への帰国もできなかったらしい。 一時はに住み、ダウンタウンの一角で「一番」という名の中規模の日本レストランを経営し、ホテルチェーンで有名な「」のフロリダ南部地区の副社長という肩書きを持っていたという。 アメリカでも一時は2輪レースへの復帰を希望していた。 革ツナギメーカー(伊藤が現役当時に着用していた)の元会長(櫛谷稔子)は、「のさん(ワークスライダー)がアメリカに行った際、伊藤史朗さんから革ツナギが欲しいと頼まれたというので、革ツナギを作って手渡した」というエピソードを語っている。 1991年、アメリカで死去。 エピソード [編集 ] ドイツのBMW本社から日本に派遣されていたヘルマン・リンナーは「多くのライダーを見てきたが、伊藤ほど最初から上手にBMWを乗りこなす感覚の鋭いライダーは初めてだ」と述べていたという。 1960年の世界GP500ccクラス参戦で貸与されたのは、前年まで元世界チャンピオンのが乗っていたマシンだったが、伊藤は初めて乗ったマシンを名手デューク以上に巧みに操ったという。 当時の日本には舗装のレース専用コースが存在せず、舗装路でのレースは伊藤にとって生まれて初めてだったが、初戦フランスGPで予選3位、決勝6位という好成績を挙げている。 浅間火山レースなどで伊藤と争ったライバルのは、「自分のことを天才だとは思わないが、伊藤史朗君は天才でしょう」と語っている。 の小説『跳べ、狼』(1964年)の主人公は、伊藤がモデルであると言われる。 伊藤と石原には親交があったと言われる。 石原の弟のも、伊藤と親交があったらしい。 の小説「」(1969年)の主人公・北野晶夫は、伊藤がモデルという説がある(ただし作者の大藪はこれを否定している。 実際同作品には晶夫とは別に伊藤自身が登場している)。 また、大藪の短編「死のグランプリ」は伊藤の経歴をそのままなぞった伊村哲朗なるレーサーがで活躍するという作品であった。 1965年に銃刀法違反で逮捕されたのと同時期、多くの芸能人や文化人やスポーツ選手も同様の嫌疑をかけられ社会問題化した。 嫌疑をかけられた中には石原裕次郎や大藪春彦、大相撲の・なども含まれていた。 1985年に刊行された「伊藤史朗の幻」(小林信也著、CBSソニー出版。 バイク誌「CYCLE WORLD」連載記事をまとめたもの)の中に、「日本で最も有名で優秀なマシンチューナーに、45歳の元ライダーが現在(1980年代半ば)のレース用バイクに乗れるかと聞いたが、高橋国光でも無理だと返答された。 そのライダーが伊藤史朗だと伝えたところ『彼ならできるかも知れない。 彼は化け物だ。 伊藤史朗だけは別だ。 一度乗るならうちのマシンを貸してもいい』と言われた」というエピソードが登場する。 「日本で最も有名で優秀なチューナー」とは、創業者の(ポップ吉村)だと言われる。 世界グランプリ戦績 [編集 ] 順位 1 2 3 4 5 6 得点 8 6 4 3 2 1 イタリック体はファステストラップ Year Class Team 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 Points Rank Wins 500cc 6 - 10 10 - - - 1 15th 0 125cc - - - 11 - - - - - - - 0 - 0 250cc - - - 6 6 5 - - - - 4 7 9th 0 250cc - - 2 2 1 - - - - 2 26 3rd 1 250cc Ret - - - - - - - - - Ret 0 - 0 脚注 [編集 ]• 「浅間からスズカまで」酒井文人著、、1990年• 放送研究と調査 2012年. 2019年7月5日閲覧。 「伊藤史朗の幻」小林信也著、、1985年• 「伊藤史朗の幻」小林信也著、、1985年• 「浅間からスズカまで」酒井文人著、、1990年• 「伊藤史朗の幻」小林信也著、、1985年• 「別冊モーターサイクリスト」2001年7月号、• 「浅間からスズカまで」酒井文人著、、1990年• 「ノスタルジックヒーロー」2010年2月号、 関連項目 [編集 ]• この項目は、関係者に関連した 書きかけの項目です。

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伊藤史朗とは

伊藤 史朗

2001年9月に一口坂スタジオの1stで行われた「i」のレコーディング風景です。 メンバーは5人で、ダビングを除き、ほぼ一発で録音されました。 やっている曲も曲なので、なんだかバンド時代がすごく懐かしくなりました。 みんな同じような世代で、聴いてきた曲も似たようなものだから、マイクテストの時はサンタナごっことかして楽しかったです。 もちろんそれは録音しませんでしたけどね・・・。 画像をクリックすると拡大します 1.ドラムの伊藤史朗さんです。 OVAのパトレイバーのドラムもこの方にやっていただきました。 2.ベースの池間史規さんです。 けっこう古くからの仲間で「紅い眼鏡」のベースを担当していただきました。 3.打ち合わせ中。 ドラムのフレーズを考えてます。 4.プレイバック中。 セッションが始まって10時間近くが過ぎているので、ちょっとお疲れです。 5.平田フミトさんです。 この方も古いおつきあいで「紅い眼鏡」「パトレイバー劇場版」などのキーボードを担当されてます。 6.ハモンドを演奏中の平っちゃんです。 7.これで指の皮が剥けました。 普段アーニーボールの0. 09を使っているのですが、これでも昔はガスの0. 1使ってたんです・・・。 8.もう指が痛いっす。 うっすら後ろに見えるのは、マーシャルの2000シリーズ2台です。 9.パーカッションの菅原さんです。 以前、あのサンタナともセッションの経験があります。 「パト2」「攻殻」以来、最近のセッションには欠かせない方です。

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伊藤史朗

伊藤 史朗

'55年、第1回浅間高原レースの250ccに出場。 弱冠16歳で優勝を飾り、天才ライダーとして注目を集めた。 翌年、ヤマハチームに加入するが、第2回浅間火山レースの開催延期により一時オートレースに転身。 '57年、改めてヤマハと契約し、同年第2回浅間火山レースの250ccクラスに参戦(DNF)。 '58年には初の海外レース、第8回カタリナGP(アメリカ)で6位入賞を果たした。 その後'60年、BMW日本代理店のサポートで世界GP500に参戦(開幕戦フランスGPで6位入賞)。 '61年からは、世界GPに初挑戦するヤマハファクトリーチームのライダーとして250cc/125ccの両クラスに出場。 250ccランキング9位に名を連ねた。 そして'63年、アメリカ・デイトナの単独イベントUS GPで250ccクラス優勝。 さらに世界GPでもヤマハに初優勝(ベルギーGP)をもたらし、250ccランキング3位となった。 しかし、チャンピオン獲得が期待された'64年、世界GP開幕前のマレーシアGP(単独イベント)500ccクラスで転倒し、負傷。 その影響から、アメリカと日本の2戦出場(いずれもDNF)に留まり、そのまま現役生活を終えた。 '91年死去。

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