よしのぶちゃんゆうかいじけん。 吉展ちゃん誘拐殺人事件

吉展ちゃん誘拐殺人事件

よしのぶちゃんゆうかいじけん

1963年3月31日、東京台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展ちゃん(当時4歳)が自宅近くの台東区立入谷南公園に遊びに出かけたまま行方不明になりました。 当初、家族は迷子だと思い警察に通報しました。 家族の言葉を受け、新聞にも誘拐ではなく行方不明と報じられました。 ところが聞き込みをしているうちに、公園で吉展ちゃんが「30代の男性」と会話していたという情報を得ます。 吉展ちゃんは入谷南公園内にあったトイレの水飲み場で水鉄砲に水を入れようとしていました。 その水鉄砲はアメリカ製で60センチほどある大きなものでしたが、水を入れる部分が壊れていて一生懸命なんとか水を入れようと悪戦苦闘していたのでした。 そこで小原保は「おじちゃんが直してあげようか」と声をかけていたのでした。 そうしたことから警視庁捜査一課は誘拐の可能性があるとして捜査本部を設置しました。 逮捕の決め手は、脅迫電話の録音テープのその声でした。 東北大学文学部講師を務めていた言語学者の鬼春人が「犯人は南東北・北関東出身の40歳から50歳の男である」という説を新聞に発表し、それが出身地の絞り込みにつながりました。 また、文化放送の記者が行きつけの喫茶店で「声によく似た人を知っている」という話を聞きつけたこともきっかけになっています。 その声の主である小原保に録音を伴ったインタビューを行い、さらに電話した際の会話も録音し、脅迫電話の声と比較鑑定した結果でした。 また小原保は足が悪く、歩き方にも特徴がありました。 そのような男が子供を連れていたという目撃証言もなく、身代金を素早く奪って逃げる男と足の悪い青年とはどうしても重なりませんでした。 しかも3月27日から4月2日まで小原保は福島の実家にいたというアリバイがありました。 そのため小原保は「シロ」と判断されていました。 平塚八兵衛は、小原保のアリバイを徹底的に洗い直しました。 事件当日あるいは身代金受け渡し当日など、小原保は実家の福島にいたと自供していましたが、地道な裏付け捜査により実家にいなかったことも判明しました。 平塚八兵衛は身代金要求のテープを聞いて、この声が小原保であると確信しました。 あとはアリバイ崩しでした。 当時小原保は窃盗罪で前橋刑務所に服役していましたが、「最後の容疑者」として徹底的に調べ始めます。 平塚八兵衛は実家の福島に行き、「4月1日に小原保を見た」という人物の証言が「実はそれは28日のことだった」という誤りを確認しました。 小原保は実家には行かず「29日に知人の家の土蔵の鍵を壊して、凍み餅を食べた」と証言していましたが、実はこの年は米が不作で凍み餅は作らなかったということも判明しました。 平塚八兵衛は、小原保の母親の言葉を再現し、小原保の心に訴えようとしました。 平塚八兵衛が小原保の郷里の福島に行った際、その母親に会っています。 母親は「息子は人を殺すような悪人ではありません。 しかし、もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になって本当のことを言うように言ってください」と言い、母親は何度も土下座したそうです。 平塚八兵衛はその母親の様子を小原保に伝えました。 すると、みるみるうちにうなじに鳥肌が立ったといいます。 小原保はずっと黙秘を続けていましたが、数々のアリバイに矛盾点があることを突きつけられ、平塚八兵衛は「これだけ矛盾点があるのにまだ逃げ切れると思っているのか」と小原保を追い込みました。 そしてこの母親の言葉で、小原保は犯行を自供します。 「福島誠一」というペンネームで、死刑執行後に出版された歌集『昭和万葉集』に370首もの短歌を投稿していました。 「怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる」「世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木」「静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写る我が顔」「明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る」が死刑前日に詠んだ短歌です。 また犯人の小原保は、服役中に何度か平塚八兵衛に手紙を送っています。 死刑当日も宮城刑務所の看守から「真人間になって死んでいきます」という遺言を電話で伝えられたと言います。 定年退職した平塚八兵衛はのちに福島の小原保の墓を訪れています。 1966年の東映映画『一万三千人の容疑者』、1979年に『土曜ワイド劇場』の一作として放映された『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』、2014年のCX系『Mr. 1963年の東宝映画『日本一の色男』には、本作とは一切関係ありませんが、主人公が行きつけとしている銭湯の壁に、吉展ちゃんの行方不明の内容の写真入りポスターが貼られているのが映っています。 また2015年から放送されたアニメ『コンクリート・レボルティオ〜超人幻想〜』では、吉展ちゃん誘拐殺人事件をもとにした「大鉄くん誘拐事件」という想像上の事件が描かれています。 死刑になった小原保という人物はだらしない人間で、借金問題が積み重なり犯行に及びました。 時計店で働いていた頃は、問屋で仕入れ、店で販売するはずだった時計を勝手に個人的に売ってしまったり、修理に持ち込まれた時計を売ったりと実に身勝手な行為を繰り返します。 借金も積み重なり、今のお金で60万円になっていました。 頭を抱えていた小原保は実家の福島に出向きお金の無心を考えますが、結局実家には顔を出さず野宿をして虚しく東京へ帰っています。 また、映画『天国と地獄』を観て、子供を誘拐し身代金を得ようと考えたそうです。 戦後になって日本経済は右肩上がりに急成長していましたが、裏を返せば貧富の差が目に見える形で広がっていた時代でした。 福島の貧しい家から東京に出てきた小原保からしてみれば、映画『天国と地獄』は虚構ではなく、現実そのものに見えていたのかもしれません。

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4歳児誘拐殺人「吉展ちゃん事件」死刑囚の素顔と新事実 弁護人が半世紀ぶりに明かす

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概要 [ ] で初めてが結ばれた事件であり、この事件がきっかけで、やその家族に対しての被害拡大防止および保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれた。 また報道協定解除後の公開において、を本格的に取り入れ、テレビやでからの電話の音声を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあった。 犯人が奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。 事件の経緯 [ ] - 16時30分 - 17時40分、・台東区入谷町に住む建築業者の長男・村越吉展(当時4歳。 以下「被害者」という)が自宅近くにある台東区立(台東区入谷町)に遊びに出掛けていたが行方不明になった。 両親は迷子を疑いに通報。 新聞などで「誘拐」ではなく として報じられる。 - 警察の聞き込みの結果、公園で被害者が「30代の男性」と会話していた目撃情報を得たことから、はの可能性ありとしてを設置。 - 17時48分、50万円を要求する電話が入る。 警察は3年前に発生したの悲劇を繰り返さないため、に対しの自粛を要請し、「」が結ばれる。 ) - 19時15分、犯人から「子供は返す、現金を用意しておくように」との電話が入る。 - 22時18分、また身代金を要求する電話が入り、家族が被害者の安否を確認させるよう求め電話を4分以上に引き延ばした結果、犯人からの通話の録音に成功。 後に公開された音声は、この通話のものである。 この後、まで犯人から合計9回の電話があった。 - 1時40分、犯人より「子供は寝ている、これから金を持ってくる所を指定する」との電話が入る。 5時30分、犯人から「前の脇のにを持って来い、警察へは連絡するな」との電話が入る。 母親がすぐに指定された電話ボックスへ向かったが、犯人は現れなかった。 そして母親は電話ボックスに「現金は持って帰ります、また連絡ください」とのメモを残して自宅へ戻った。 この電話ボックスにはその後も犯人は現れなかった。 23時12分、 犯人から「今朝の上野駅の電話ボックスは(がいるので)危なくて近寄れなかった、今度は証拠として子供の靴を置くからそこへ現金を置け、場所はまた後で連絡する」との電話が入る。 - 1時25分、犯人から「今すぐ(母親が)一人で金を持って来い」との身代金の受け渡し方法を指示する電話が入る。 この電話で犯人の指定した現金受け渡し場所は被害者宅からわずか300mしか離れていない自動車販売店にあるだった。 自宅をすぐに出た母親は犯人に指定された場所に行くと、そこには被害者の靴が置いてあったので身代金の入った封筒(50万円・犯人を刺激しないため封筒の中身に本物の紙幣が用意された)をその場所に置いた。 警察がその車を見張りだすまでのわずかな時間差を突いて、犯人は被害者の靴と引き換えに身代金を奪取し逃亡してしまった。 張り込みの1人は母親が50万円を置いた側にまわる途中、現場から歩いてくる背広姿の男に会ったが、気が急いていたためもしなかった。 以降、犯人からの連絡は途絶え、被害者も帰ってこなかった。 - がマスコミを通じて、犯人に「(被害者を)親に返してやってくれ」と呼び掛ける。 - 警察は公開に切り替える。 また、犯人からの電話を公開し、情報提供を求めたところ、1万件に及ぶ情報が寄せられる。 寄せられた情報には犯人に直接つながる有力情報もあったが、直後の逮捕にはつながらなかった。 - 捜査本部は、脅迫電話の録音を異例の「犯人の声」手配としてラジオ、テレビを通じて全国に放送、協力を求め、正午までに220件を越す情報が寄せられる。 - 警視庁捜査一課の捜査本部を解散、吉展ちゃん事件に関して専従者による特捜班を設置した。 - 警視庁捜査一課の吉展ちゃん事件特捜班は、小原保(こはらたもつ 32歳)を営利誘拐、恐喝容疑で。 小原は「誘拐した夜、のお寺で殺し墓地に埋めた」と自供、犯行当時は台東区の時計商をされ取引先からの返済を迫られていた。 - 境内でした被害者の遺体を発見。 捜査 [ ] 捜査は長引き、犯人を逮捕するまで2年の歳月を要した。 捜査が長引いた理由には次のようなものがある。 人質は事件発生後すぐに殺害されていたが、警察はそれを知らなかった。 警察は人質が殺害されることを恐れ、報道各社と 報道協定を結んだ。 当時はまだ営利目的の誘拐が少なく、警察に誘拐事件を解決するためのノウハウがなかった。 身代金ののナンバーを控えなかった。 犯人からの電話についてができなかった。 当初、脅迫電話の声の主を「40歳から55歳くらい」と推定して公開し、犯人像を誤って誘導することになった。 結局は、マスコミを通じて情報提供を依頼する。 事件発生から2年が経過した1965年3月11日、警察は捜査本部を解散し、「方式」と呼ばれる専従者を充てる方式に切り替えた。 有力な手がかりとされた脅迫電話の録音テープについて、当初警察庁の技官に録音の鑑定依頼をしたが、当時は技術が確立されていなかった。 者のは犯人の声が公開された後、「青」や「三番目」という言葉のやの使用等から「奥羽南部」(・・)または・出身ではないかという推論を新聞に発表している。 最終的には文学部講師を務めていた言語学者の鬼春人が、1963年10月21日に「犯人は以南の南東北・北関東出身である」という説を新聞に発表し、出身地の絞り込みにつながることとなった。 その後、警視庁がの秋山和儀に依頼した鑑定では脅迫電話の声を従来の推測とは異なる「30歳前後」と推定、声紋分析で「犯人からの電話の声が時計修理工の小原保(事件当時30歳)とよく似ている」と指摘した。 事件発生直後の1963年5月に、の記者が行き付けので「声によく似た人を知っている」という話を聞き付けたことがきっかけで、よく顔を出すという飲み屋に張り込んで小原に録音を伴ったをおこない、さらにその後、店にいる小原を呼び出して電話をした際の会話も録音し、それらの音声が残されていた。 秋山の指摘は後者の音声を脅迫電話と比較鑑定した結果であった。 これに加え、刑事の地道な捜査により小原のに不明確な点があることを理由に小原をとして事情聴取が行われる。 事件解決 [ ] それまでにも、小原は被疑者の一人として捜査線上に上がっていた。 小原は、、泥棒で1年6月(4年)のを受けたが、執行猶予中の同年に工事現場からを盗み、に懲役2年の実刑が確定。 に収容されていた。 警察は、上記の窃盗罪での服役中の小原に対し、取り調べを幾度か行ったが、次の理由から決め手を欠いていた。 小原はからまでに帰省していたと主張していたが、そのを覆せるがなかった。 事件直後に大金(20万円)を愛人に渡しているが、金額が身代金の額と合わない。 脅迫電話の声と小原の声質は似ているが、使用している言葉が違うので同一人物と断定できない。 での検査結果は「シロ」であった。 片足が不自由であることから、身代金受け渡し現場から素早く逃げられない。 小原には、誘拐発生のと最初の脅迫電話があった同年の両日、郷里の福島県内で複数の目撃者が存在していたが、刑事のらは徹底的なの洗い直しを実施した。 の目撃者は雑貨商を営む老婆で、親戚の男性から、をしている男を追っ払ったという話を聞いた翌日に、足の不自由な男が千鳥橋を歩いているところを目撃したという。 裏付け捜査により、この男性はワラボッチ(防寒と飾りを兼ねて植物にかぶせる囲い)で野宿している男を追っ払った後、に不審者について報告し、放火されることを防ぐためその日の夕方にワラボッチを片付けた。 その日付は、駐在所の記録でであることが判明。 つまり、小原が老婆に目撃されたのは、その翌日の であることが分かった。 一方、の目撃者は、この男性の母親。 を患っていた孫(この男性の長男)が、一時中断していた通院を再開した日に、小原を目撃したという。 裏付け捜査により、この孫は2月2日からまで通院。 その後、とにも通院しているという記録が残っていた。 しかし、当日の孫の腹痛は、前夜のでの草餅の食べ過ぎが原因と判明。 節供とはの節供のことで、この土地ではで祝っていた。 その年の3月3日は。 したがって、病院に運ばれた日(目撃された日)は、その翌日の ということになる。 さらに、小原は、に実家に借金の申し入れをしに行ったものの、何年も帰省していない気まずさから、実家の蔵へ落とし鍵を開けて忍び込み、米の(しみもち)を食って一夜を明かしたと供述しているが、小原の兄嫁によると、当時は落とし鍵ではなく既にに替えられていたことが分かった。 また、その年は米の不作により米の凍餅は作らなかった(芋餅を作った)ことも分かった。 また片足が不自由であり身代金受け渡し現場から素早く逃げられない問題については、アリバイ崩しの過程で実際には身のこなしは敏捷であることが判明した。 大金の金額については、脅迫電話テープの公開直後に(身代金から愛人に渡した残りの金額に相当する)「30枚ほどの一万円札を持っているのを見た」という情報が実弟を名乗る人物からもたらされていたことや、身代金が犯人に奪われた直後の一週間で小原がほとんど収入がないのに42万円もの金額を支出していたことが明らかになった。 小原は前橋刑務所からに移管されたが、別件取調べはであるという人権保護団体からの抗議もあり [ ]、聴取は10日間に限定された。 小原はを続けたのちに1963年4月に得た大金の出所を「時計の密輸話を持ちかけた人物から横領した」と述べたが、その人物の具体的な情報は話さなかった。 その点を問い詰められて、4日目に金の出所についてのそれまでの供述が嘘であることを認めたものの、それ以後は再び黙秘したりする状況が続いた。 平塚ら取り調べの刑事たちは、金の出所以外の供述にも嘘があるのではないかと何度も問いただし、さらにはアリバイを崩す捜査の過程で福島県に住む小原の母親に会った際、「もし息子が人として誤ったことをしたなら、どうか真人間になるように言って下さい」と言いながら母親がをしたエピソードを、平塚自らが再現して小原に伝えたりもした。 しかし、事件との関係は否定し続けたまま勾留期限を迎えることになった。 小原は前橋刑務所へ戻されることになったが、最後の手段としてで声紋鑑定をすることになり、音声の採取のため、に取調べ室に呼ばれた。 これについて、当初刑事たちはあくまで「雑談」だけをするよう命じられていた。 しかし平塚たちは直属上司の許可を得て、福島で調べてきたアリバイの矛盾を初めて直接小原に伝えた。 追い込まれた小原はついに、それまでの「東京に戻ったのは4月3日である」という自身の主張が事実とは異なり、4月2日には東京にいたことを「 をか何かの電車から見た」と述べる形で認めた。 この火災の発生は、の午後。 最初の脅迫電話が掛かってきた時、テレビのニュースでこの火災のことを報じていたのを、被害者の祖母が覚えていた。 それでも小原は1963年4月に持っていた金は事件と無関係と言い張ったが、平塚らは「これだけ材料を突きつけられてまだ逃れられると思っているのか」と小原を追い詰め、それからほどなくして小原は金が吉展ちゃん事件と関係のあるものだと供述した。 翌7月4日に警視庁に移された小原は、営利誘拐・恐喝罪で逮捕され、その後の取り調べで全面的に犯行を自供した。 円通寺のよしのぶ地蔵 小原は映画『』の予告編を観たことで犯行を計画したと述べた。 被害者が身奇麗だったことから金持ちの子と考え、被害者が持っていた水鉄砲を褒める形で誘拐したが、被害者に足が不自由だと悟られたことから、誘拐直後に殺害していたことが小原の供述から分かった。 小原によると、被害者を親に返せば足が不自由なことから自分が犯人と特定されると考えたため殺害に及んだという。 身代金の脅迫電話を掛けた1963年4月2日には、既に被害者は殺害された後であった。 被害者は未明、小原の供述から三ノ輪橋近くの()のから遺体で発見され、となった。 遺体を検証した東京都監察医のは、被害者の口元から2年で発芽するが生え出しているのを見つけ、確かに土中に2年も埋められていたことに改めて冥福を祈ったという。 その後、被害者の供養のため、円通寺の境内には、近隣住民らによる募金などを基に 「よしのぶ地蔵」が建立され、奉られている。 裁判・その後 [ ] 、が小原にを言い渡すが、弁護側が計画性はなかったとして。 同年9月から控訴審として計3回のを行うも、11月には控訴をする。 弁護側がするが、、は上告を棄却し死刑が確定する。 4年後のににて死刑が執行される。 小原は服役中平塚に何度か手紙を送ったという。 平塚によると、処刑当日、刑が執行された宮城刑務所のより「真人間になったから平塚さんによろしく」という小原の言葉が電話で伝えられたという。 平塚はにした後、自分が逮捕して死刑となった人物の墓参をおこなった際に、小原が先祖代々の墓に入れてもらえず、その横の小さな盛り土がされただけの所にぞんざいに葬られていたのをみて「胸をグッと突かれたよう」になり 、花と線香を手向けたものの合掌することを失念したと述べている。 小原と短歌 [ ] 死刑確定後、「何か拠り所を持たせてやらなければ」と考えた教誨師が小原に勧めたのが短歌だった。 小原は次第に教誨師へ心を開き短歌を始めるまでに精神状態は落ち着いた。 小原の短歌は同人誌『土偶』主宰者の指導により上達。 小原は「福島誠一」ので投稿し、朝日歌壇に選ばれたりした。 死刑執行後のに出版された歌集『昭和万葉集』(講談社)に小原の短歌が掲載され、3年後のに『氷歌 - 吉展ちゃん事件から20年 犯人小原保の獄中歌集』(中央出版)が出版される。 「福島誠一」の名前は「今度生まれ変わる時は愛する故郷で誠一筋に生きる人間に生まれ変わるのだ」という願いが込められていた。 彼が投稿した短歌は370首にも及んでいる。 死刑前日に小原が詠んだ短歌は• 怖れつつ想いをりしが今ここに 終るいのちはかく静かなる• 世をあとにいま逝くわれに花びらを 降らすか窓の若き枇杷の木• 静かなる笑みをたたえて晴ればれと いまわの見ずに写るわが顔• 明日の日をひたすら前に打ちつづく 鼓動を胸に聞きつつ眠る この4首である。 事件の影響 [ ] 最終的に犯人逮捕に成功したとはいえ、年月を要したばかりか人質の救出に大失敗したことから、警視庁上層部が抱いたは深刻なものであり、翌1964年4月1日、日本初の「誘拐捜査専門部隊」として、捜査一課にが設置された。 またこの事件を一つのきっかけとして、、刑法の営利誘拐に「身代金目的略取」という条項が追加され、通常の営利誘拐よりも重い刑罰を科すよう改められた。 この事件を題材には『誘拐』を執筆、第39回と第9回を受賞し、には『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』として、後述の通り化もされた。 小原の逮捕・犯行自供、被害者の遺体発見を受けて午前7時35分からが放送した『ついに帰らなかった吉展ちゃん』 は、・関東地区調べで59. これは、今日に至るまでの視聴率日本記録となっている。 ただし、関西地区調べでの『ついに帰らなかった吉展ちゃん』の視聴率は33. 脚注に記載した通り、本事件を契機に犯罪捜査における電話のが認められるようになった。 歌 [ ] 、この事件を主題とした楽曲「かえしておくれ今すぐに(返しておくれ今すぐに)」 (作詞:、作曲:)が()、(同)、()、市川染五郎(後の。 )、()による競作で発売された。 事件の犯人に訴え掛けたこの楽曲は、「たったひとりの人物に聴かせるために作られ、発売された歌」であり、小原は別件でにいた時にで、この歌を聴いていたという。 小原が犯行を自供するとラジオなどでは流れなくなった ものの、後にザ・ピーナッツ、ボニージャックス、市川染五郎のバージョンが、加えてにはフランク永井によるバージョンもCD化されている。 また、凡三原(三原茂)が本事件を題材とした楽曲「よしのぶちゃん」を作詞・作曲し、自身の歌唱により自主制作(販売は)でレコード化した(B面は「犯人(ほし)を探せ」)。 映画・テレビ [ ]• 『噫(ああ)!吉展ちゃん』 ・朝日テレビニュース社(現= 東映系映画館で上映されているニュース映画『東映ニュース』の特別版。 事件発生から最悪の結末までを構成したドキュメンタリー映画での前身である「東映まんが大行進」の一本として劇場公開された。 『一万三千人の容疑者』 東京 監督:、脚本: 事件の主任刑事、堀隆次の捜査手記を原作に映画化された。 『戦後最大の誘拐 吉展ちゃん事件』 、S・H・P( 現:オフィス・ヘンミ・クリエイティブ) :芦田伸介、小原保: 原作:本田靖春『誘拐』、監督:、脚本: 実際の犯行現場、小原の実家やその周辺でもロケを行い、撮影には半年以上をかけた。 「」の一作として同年に放映され、「 当時の 番組最高視聴率」、優秀賞、、テレビ大賞などを受賞。 、『実録・昭和の事件シリーズ コレクターズDVD』として、「」ほか、実際に起こった事件に基づいた5作品と共にDVD化されている。 「声~吉展ちゃん事件取調べテープ」 ギャラクシー賞受賞。 番組の詳細は脚注を参照。 『』 テレビ朝日 平塚八兵衛:、小原保:• 『』 監督: 本件と内容的には一切関連性はないが、劇中、演じる主人公行きつけのの壁に、吉展ちゃんの行方を尋ねる写真入りのポスターが貼られているのが確認できる。 本件が公開捜査になって約3ヶ月が経過した、1963年7月13日公開。 『』 監督: 脚本: 吉展ちゃん誘拐殺人事件をモチーフの一つとした「大鉄君誘拐事件」という架空の事件が作中で発生する。 小説 [ ]• 『罪の轍』、( 吉展ちゃん事件をモデルにした誘拐事件を捜査する刑事たちを中心に当時の社会情勢を描く。 脚注 [ ]• 事件発生当時、は「通信の守秘義務」を理由として逆探知を認めず、電話の録音も当初は被害者家族が機材を用意して自主的に実施していた。 発生から約1ヶ月後に警視庁の強い要請により、の通達で公社が逆探知に協力することとなった(以上出典:本田『誘拐』、『本田靖春集1』p. 32)。 正式に閣議で「受信者の了解があり、脅迫者を当局が突きとめるための逆探知であれば、通信の秘密をおかすことにならない」という見解が示されたのは同年の10月4日で、その4日後に当事件の被害者宅にいたずらで脅迫電話をかけた27歳の男性が、「電話逆探知による逮捕者第一号」となった(出典:本田『誘拐』、『本田靖春集1』pp. 119 - 121)。 - 鈴木法科学鑑定研究所。 朝日新聞1963年4月26日14頁。 この記事で金田一は犯人像について「教養の低い人と見られるにもかかわらず(中略)高圧的な言葉遣いをしている」ことから「戦前に軍隊に籍を持ち、づとめをしていた人ではないかと思わせる」と述べているが、こちらは実際の犯人には当てはまらなかった。 本田『誘拐』、『本田靖春集1』pp. 128 - 129)• 鬼春人は1965年2月に刊行した著書『吉展ちゃん事件の犯人 その科学的推理』(弘文堂)の中で、犯人の出身地を茨城・福島・栃木の3県が境界を接する地帯とし、その中には小原の出身地であるも含まれていた。 さらに、話し方の特徴から、成人後も東北各地を転々としたり、東京下町に長期間居住もしくは出入りしたことを指摘したが、これも小原の経歴に重なっていた(以上出典、本橋信宏『60年代郷愁の東京』、2010年、pp. 34 - 35)。 本田『誘拐』、『本田靖春集1』pp. 101 - 108• - 全国ラジオネットワーク• 文化放送はこれを含めた一連の事件報道により、の第14回民放大会賞において、「番組活動賞揚部門」の「ラジオ報道活動」の部で最優秀賞を受賞している(参照: - 日本民間放送連盟)• 小原はワラポッチで野宿したのは3回であると供述していた。 平塚は後述の録音テープでは、「土蔵の屋根を昭和36年に瓦葺きに吹き替えた際に、土蔵の土台が腐っていたために戸が曲がり、鍵がかからない状態になっていた」と小原に問いだたしている。 この番組では平塚の自宅に現存していた小原の取り調べを録音したテープや平塚の捜査メモを元に、その内容を再現した。 平塚は『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』の聞き書きの中で「命令違反を承知で、オレのクビをかけた調べを(した)」「30分ぐらいはいちおう録音をとったかな。 腹の中が煮えくりかえるんだ。 『もうやめろ』ってスイッチを切ってな、調べを始めちまったんだ。 命令違反の"証拠"を残しちゃまずいからな」(新潮文庫版、p. 72)と述べているが、NHKスペシャルの説明とは合致しない(録音テープはその後も残っている)。 本田靖春の『誘拐』では、この日は当初FBIに送る音声を収録するための会話をしていたが、後述の「日暮里大火」につながる発言を聞いた後に、平塚が本庁の係長に電話で「録音はとりました。 これからやつをちょいと絞めてみたいんですがね、どうでしょう」と承認を求め、「君に任せるよ」という回答を得て、小原の故郷で調べた内容を聞かせたとなっている(『本田靖春集1』pp. 185 - 186)。 録音テープによると、この供述は小原の方から「東京へ帰ってきたのは(4月)3日だったってことになってるでしょう」(平塚が「いく日なんだい」と聞いて)「の日なんです」と切り出している。 平塚は『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』で、取り調べの中で悪党だとなじられた小原が「いいこと(親類の家で小火を消し止めた)もした」と抗弁した際に「だけど日暮里の火事みたいに大きくなったら、ちょっと手が出ませんよ」と口にしたことを聞き逃さず(「4月2日の日暮里大火を『山手線の中で見た』とゲロった」と少し後ろにある)、しばらくしてからアリバイの矛盾をまくし立てた後、平塚の調べた内容がウソだと答えた小原に「日暮里の大火を、オマエは見たといったな。 あれは四月二日だ。 それもウソか」とたたみかけてから「わたしがこれまでいってきたことは、ウソです」と認めたと述べている(新潮文庫版、pp. 74 - 75)が、この内容はNHKスペシャルの説明および紹介された録音テープには出てこない。 本田靖春の『誘拐』では、「録音」のための会話の中で、福島から帰ってきてから4月7日まで何をしていたかと問われた際に、4月3日に王子の親戚の家近くで起きた小火を消し止めたが「いつだったかおれが電車の上から見た日暮里の大火事みたいになったらたいへんだったろうな」と口にし、その後平塚がアリバイの矛盾点を伝えた中で「おまえは四月三日まで福島にいたというけど、おれの調べじゃ三月三十日までしかいねえ」と述べ、平塚と小原のどちらが嘘かはっきりさせようと迫ると、小原が自分の供述が嘘だと認め、そのあとに平塚が「日暮里大火は四月二日のことなんだぞ。 四月三日に帰って来たというのも嘘か?」と問いかけたとなっている(『本田靖春集1』pp. 187 - 188)。 本田『誘拐』、ちくま文庫版pp. 308 - 309。 録音テープは小原が「4月3日の帰京」が嘘だと認めたあと、刑事たちが追及しているところで終わっているが、当時の担当刑事の一人はNHKスペシャルの中で「それから(金が事件と関係があるものだと自供するまで)2時間かからなかったのではないか」と述べている。 平塚は『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』で、小原が(日暮里大火の件を追及されて)それまでの供述がウソだと認めた直後に「わたしがやりました」と話したと述べている(新潮文庫版、p. 75)が、NHKスペシャルの説明とは一致しない。 本田靖春の『誘拐』では、NHKスペシャル同様、しばらくしてから金が事件と関係があると供述したところでその日の取り調べが終わったとしている(『本田靖春集1』pp. 188 - 189)。 小原の記憶違いにより、最初は隣の寺を捜索し、遺体が見付からなかった。 「」2013年9月27日放送分• 『毎日グラフ』別冊「事件記者百年」pp. 86 - 87、、。 『刑事一代 平塚八兵衛の昭和事件史』で平塚は、自分が小原を自供に追い込まなければこのようにならなかったのかもしれない、いや裁いたのは自分ではないといった「いろんな気持ち」が混じったと述べ「わかんめえよ。 あんたらには、この気持ち」と結んでいる(新潮文庫版、p. 88)。 (監修)『生き方の鑑 辞世のことば』講談社〈〉、2009年• 毛利, 文彦「第五章 刑事警察の特殊部隊」『警視庁捜査一課特殊班』、2002年。 この番組の放映開始直前の同日早朝、被害者の遺体が発見された。 株式会社ビデオリサーチ。 『テレビ人間考現学』、 [ ]。 当時のレコードジャケットのタイトル表記は「ボニージャックス(キング)かえしておくれ今すぐに」、「ザ・ピーナッツ(キング)かえしておくれ今すぐに」、「フランク永井(ビクター)返しておくれ今すぐに」、「市川染五郎(コロムビア)返しておくれ今すぐに」、「芦野宏(東芝)かえしておくれ今すぐに」となっている。 これらの中ではザ・ピーナッツ版が複数回にわたってCD化されており、比較的入手が容易となっている。 石橋春海著『封印歌謡大全』(、)P. 66 - 67。 三原茂『出逢いおもしろ人生 こぼれギターの流れ旅』馬三企画、1992年、83〜92頁。。 レコード・ジャケットには、に扮した(本事件とは無関係)の写真が使用されている。 『思い出のバカレコード大全』、2017年、13頁。。 芦田が演じた堀塚刑事には、主任刑事であるだけでなく、容疑者を自白に追い込むという、平塚八兵衛刑事の要素も含まれている。 また、後年制作された『戦後最大の誘拐』には、芦田、ならびに(役柄も容疑者の愛人で同一)が、本作に引き続き出演している。 『』1966年7月下旬号(No. 419)掲載『一万三千人の容疑者』 pp. 83 - 103()。 ・著『「砧」撮影所とぼくの青春』pp. 264 - 270。 『』号、pp. 69 - 71「『実録・昭和の事件シリーズ』の世界」。 監督、(当時)の中村和則プロデューサーへのインタビューを中心に構成。 『日本一の色男』本編を収録したDVDを付属した『東宝 昭和の爆笑喜劇DVDマガジン』第6号(2013年・)本誌に掲載された、のコラム『ソコモド!! 6 - 番台脇の「吉展ちゃん」』より。 参考文献 [ ]• 佐々木嘉信『』〈〉、2004年。 平塚からの聞き取りは1975年におこなわれた。 『誘拐』、1977年• 〈〉、1981年。 〈〉、2005年。 『本田靖春集1』旬報社、2001年にも収録。 関連項目 [ ]• - 誘拐事件における報道協定創設のきっかけとなった。 外部リンク [ ]• - 境内に「よしのぶ地蔵」が奉られている。 - 日本放送協会(NHK) この項目は、・(犯罪者・犯罪組織などを含む)に関連した です。 などしてくださる()。

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4歳児誘拐殺人「吉展ちゃん事件」死刑囚の素顔と新事実 弁護人が半世紀ぶりに明かす

よしのぶちゃんゆうかいじけん

前回の東京五輪前年、1963年に台東区の村越吉展ちゃん(4歳)が身代金目的で誘拐、殺害された「吉展ちゃん事件」は、何度もドラマや映画になった有名な事件だ。 が、注目されてきたのは主に捜査段階の話で、死刑判決を受けた犯人の時計修理工・小原保(1971年死刑執行)の裁判にはあまり光が当てられてこなかった。 小原はどんな人間で、裁判ではどう裁かれたのか。 最高裁の上告審で弁護人を務めた白井正明弁護士(80歳)に、当時の話を聞いた。 弁護士になって3年目の若手だった白井弁護士が東京弁護士会の会員控室に立ち寄った時、何やら大騒ぎになっていた。 聞けば、小原の上告審を担当した高齢の国選弁護人が解任され、弁護人を至急選任せねばならないとのことだった。 「この時に一緒にいたボス(所属事務所の経営者弁護士)は、『復讐するは我にあり』という小説や映画になった連続殺人事件の被告人を弁護した経験がある人でした。 私にも『こういう重大事件を担当し、刑事弁護の経験にしてみては』と勧めてきたのです」 白井弁護士は当時から刑事弁護が好きで、とくに事実認定を争う事件が好きだった。 が、この時は受任を躊躇したという。 死刑事件だったためだ。 「死刑事件でも被告人を救える可能性があれば、死刑から救うために受任しようと思えます。 しかし小原の場合、上告審でしたからね」 日本の裁判は三審制だが、最高裁の上告審で二審までの結果が覆ることはほとんどないのが現実だ。 小原は一審で死刑、二審で控訴棄却の判決を受けており、救える見込みはないと思ったのだ。 それでも結局受任したのは、小原に縁を感じたためだった。 「その少し前、検察官が一審の無期懲役判決を不服とし、死刑判決を求めて控訴した強盗殺人事件の二審で弁護を担当したのですが、一審判決が維持され、被告人を救うことができました。 この被告人は逮捕された時、同じ日に小原が自白したためにそのほうが大きく報道され、報道の扱いが比較的小さくなった。 金に困って重大な事件を起こしたが、小原はおとなしい人物だったという。 身の上話も色々聞いた。 福島県石川町で貧しい農家の五男として生まれた小原は、子供の頃に患った病気のために正常な歩行ができず、いじめにも遭っていた。 不遇な少年期は山に登り、山並みを眺めている時が唯一、気分が安らいだと語っていたという。 「私も子供の頃、母親の実家がある福島県の会津に疎開していて、当時はよく山に登っていました。 その話をしたら、小原は心を開いたようでした」 そして小原は、一、二審では認めていた捜査段階の自白が「事実と違う」と言い出したという。 「自白では、小原は被害者を誘拐した後、殺害するために寺の墓地に連れて行き、首をヘビ革のバンドで絞めたうえ、両手でもう一度絞めて窒息死させたと供述していました。 しかし実際は、被害者を誘拐後に墓地で一休みしていたら、アベックがやって来たため、被害者に声を出されては困ると手で口を押えたところ、気がついたら亡くなっていたというのです」 つまり、小原は「死なせてしまったが、殺すつもりはなかった」と殺意を否定し始めたわけだ。 事実なら、その罪は「殺人」ではなく、量刑に死刑がない「傷害致死」になる。 「取調べで罪を認めた後、最初は本当のことを話したが、捜査官に信じてもらえず、捜査官の言う通りの殺害方法にしてしまったとのことでした。 私には、『子供を殺すのに、2度も首を絞めませんよ』と言っていました」 白井弁護士はこの新供述を聞いた当初、死刑を免れるための嘘ではないかと疑った。 そこで反対尋問もして用心深く事実関係を確認した。 小原は「いずれにせよ、自分には責任がありますし、反省もしています。 しかし本当のことを伝えておきたいのです」と言っていたという。 それでも、白井弁護士は小原の新供述を裏づける証拠を探すため、現場の寺に行ってみた。 アベックが訪れるような墓地なのかを確認するためだったが、そういう様子はなかった。 一方、小原は「自白には、他にも事実と異なるところがあるのです」といくつかの「新事実」を語ったという。 たとえば、身代金を奪った時のこと。 この事件で警察が当初、小原に身代金を持ち逃げされた話は有名だが、小原は足に障害があっても俊敏に動けたため、警察から逃げ切れたと伝えられてきた。 自白もそうなっていた。 しかし実際には、小原は盗んだ「自転車」を使い、素早く身代金を持ち逃げしていたというのだ。 「小原は歩くのが苦手なため、普段から自転車で行動することが多かったそうです。 事件前には金策のため、石川町の実家に帰っていますが、その時も帰京の際は盗んだ自転車で駅まで出て、その自転車を駅近くで乗り捨てたとのことでした」 白井弁護士はこれらの話の裏づけをとるため、まず石川町を訪ねた。 そして小原の説明と合致する時期と場所に自転車が放置されていたのを見たという人を探し当てた。 さらに東京でも、小原が身代金を奪った後に自転車を乗り捨てたという場所の近辺で、「自転車が4月7日(小原が身代金を奪った当日)の朝に家の塀に立てかけてあった」という人を見つけたという。 白井弁護士はこの目撃者たちに頼み、供述録取書をまとめ、署名・押印してもらった。 犯行時の移動手段に関する自白が事実と異なっていても、殺意の有無に直接関係はないが、「自白に何か問題があれば、強いられた自白だと主張することはできる」と考えたのだ。 上告理由書では、「殺人ではなく、傷害致死だった」と主張し、供述録取書も一緒に提出したという。 ちなみに国選弁護では、調査費用は出ないので、出張も手弁当でまかなった。 白井弁護士は「先輩たちもそうしていたし、弁護士はそういうものだと思っていました」と言うが、採算の合わない弁護だったことは間違いない。 しかし1967年10月13日、小原の上告は棄却され、死刑が確定した。 「小原は上告が棄却された時は達観した様子でしたが、その頃、周りで死刑の執行が続いたためか、動揺したようです。 言葉にはしませんでしたが、『助かりたい』という気持ちがあるように思いました」 ただ、もう判決を変えようがないと話をして別れるほかなかった。 その後またしばらくして、小原から「ようやく納得しました」という内容の葉書が届いたという。 小原は死刑確定後、獄中で多くの短歌を詠み、透明な心境で過ごしたように伝えられてきたが、実際はそうではなかったようだ。 1971年12月23日、死刑執行。 享年38歳だった。 白井弁護士はその後、様々な重大事件を手がけたが、小原のことは今も時々思い出し、「一、二審の頃から弁護人に心を開き、もっと話をしてくれていれば・・・」と考えたりするという。 【取材協力】 白井正明(しらい・まさあき)弁護士 吉展ちゃん事件以後も徳島ラジオ商事件で再審無罪に尽力するなど、様々な重大事件を手がけた。 豊田商事事件では、国家賠償請求訴訟弁護団の中心メンバーとして国の責任を追及。 2011年に深谷市議ら2人が有権者20数人を飲食接待した容疑で逮捕され、不起訴になった事件では、有権者たちの弁護を手がけ、警察による自白強要の疑惑を表面化させた。 事務所名:白井法律事務所 【ライタープロフィール】 片岡健:1971年生まれ。 全国各地で新旧様々な事件を取材している。 広島市在住。

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