飛び石 の しゅん 小説。 【京都旅行】鴨川の飛び石|映画やアニメに多々登場する人気スポット

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飛び石 の しゅん 小説

執筆というのはとても 痛 いことだ。 自分の頭の中にあるものを具現させ、体現させ、それを何かしらの形に変えて世の中に生み出す。 妄想や、想像や、夢や、希望や、願いや、盲信を、 感情や、感動や、感涙や、感覚や、感謝や、感激を求めてものを作る行為。 そんなものは——あまりに痛い痛々しい。 痛くて痛くて、痛々しくて。 よもやそれを直視することもできないぐらい。 恥ずかしく、醜く、くだらなくて、馬鹿らしい。 自分の中にたまった思いをため込んで それを消化し、昇華する。 ため込んだ思いを拭き取るように、洗い流すように。 満足感と充足感に浸りながら、震えながら。 一人、ひっそりため息ついて、現世に帰る。 こんなもの——ほとんどマスターベーションだ。 ……いや、違う。 まだ自慰行為のほうが健全か。 自慰行為であれば、それはほとんど全て自己完結の世界で起こる。 自己の中だけで完結するものだ。 しかし。 しかし執筆活動は違う。 そうじゃない。 自分の抱えているものを全てさらけ出したその薄汚い何かを 書き終えた後、切実に誰かに見て欲しいと思ってしまうのが執筆なのだ。 いわば、露出狂。 自分の内面から湧き出た産物を他人に見て欲しいと願う変態。 ど変態。 それが作家で。 そんなものが執筆で。 そういうものが創作なのだ。 情勢として、状況として。 AIだかなんだか、機械たちの発達によってクリエイティビティの必要性が高まってきた最近だと、そんな創作活動における想像力の重要性を見直す論議が枚挙にいとまないけれど、しかし私に言わせれば、そんなものなど、ほとんど『アホらしい』ことである。 馬鹿らしいでもいいけれど。 まあ、ほとんど類義語か。 とにかく、さておき、そんな議論は全てどうでもいい。 誰がなんと言おうと——それこそ世界中でその重要度が上がっていようと——結局、妄想というのは第一印象として、『痛い』と受け取られる行為である。 妄想というのはそもそも『痛い』ことである。 現実を見ろ。 事実を見ろ。 目の前を見ろ。 そんな風に、そんな感じに。 圧倒的に正しい人間から、正しいところに身を置く人間から。 哀れみまじりな笑みと、ひとつまみの慈愛と嫉妬を持って、高みから。 ほとんどが冷たい無関心に彩られた色のない視線のままに。 彩の失われた光の瞳で。 ただ——考えなしに言われるのだ。 「何それ?」 と。 気にしないフリはしてきた。 聞こえないフリはもう慣れた。 笑ってごまかすことは何度したかわからない。 それで。 それで何より。 冷たい目を向ける『正しい人』へ。 私たちがする行為というのはいつも決まっていて。 いつも決まりきっていて。 わかりきっていて。 「好きだから」 なんて。 曖昧で、不確かで、不安定で。 答えにすらなっていない。 そんな無様な『答え』を、作家たちは言うのだろう。 「好きだから」 「好きにやっているだけだから」 「勝手にやっていることだから」 「本気じゃないから」 「遊びだから」 「趣味だから」 「だから——」 何も言わず、放っておいてくれよ。 もし、多少行動力がある人であれば、きっとその言葉をTwitterにでも投げるのだろう。 イエスマンしかおらず、ブロックとミュートに彩られた、なんの変哲もない安心で安全な空間へ。 「何それ」 と言う、その人にとって罪にあふれた言葉の主人を責める文と共に、 「……とても傷つきました。 私、もう小説はやめたほうがいいでしょうか?」 なんて、 そんな水に濡れた子羊の皮を被ったみっともない文章と共に。 後ろから、彼は石を投げるのだろう。 みんなと石を投げ合うのだろう。 ——誰に届いてもいない石を。 ただ、みんなで投げつけている『フリ』をするんだろう。 そして。 そこそこ『いいね』と『リツイート』 優しい傷を舐める『リプ』 それら与えられた、無感情な電子データを眺めて、一言。 「やっぱり私は正しかった」 と。 ケータイを閉じて、ホーム画面に戻って、全てを忘れるのだろう。 誰もいない中。 もう誰も聞いていない言葉を吐いて。 議論を放棄し、自責を放棄し、集団に逃げ、自分の中に隠れた羞恥と周知からの視線にすら、頑なによそ見を決め込み、まぶたを閉じて、目を閉じて、最終的には耳を塞ぐ。 自分の都合の良い世界を現実だと誤解して、それ以外をくだらない価値観だと放棄して。 ただ、自分勝手にオナニーを続ける日々に戻る。 なんとも馬鹿らしい。 アホらしい。 情けない。 あまりに情けなさすぎて、もはや反吐が出るレベル。 もういっそ、愚かと言ったほうがいいかもしれない。 それが救いになるかもしれない。 自虐になるなら——それは救いかもしれない。 執筆というのは 痛 いものなのだ。 それはアマチュアだろうとプロフェッショナルだろうと、関係ない。 痛くてダサくて、誤魔化しきれないほどに嘲笑を集めてしまうものなのだ。 じゃあ仮に。 仮の話で。 「実は俺……小説書いてるんだ!」 これを言う少年がいたとして。 原稿用紙を持って、それを言ってくる少年がいたとして。 あなたは、一体何を思うだろうか。 何を思って、そして何を言うだろうか。 彼になんと言ってやれるだろうか。 ——心の底から『すごい』 と思って ——この年でもう小説を書けるなんて。 そう思って。 そして、 物を指差し、それを手にとり 「読ませてくれる?」 なんて。 そんなことをあなたは思えたのだろうか。 言ったのだろうか。 きっと確かに、興味はあるだろう。 興味はあったし、手には取ったのだろう。 けれど、しかし。 それは本質的に『彼の小説』に興味があったのではない。 そうではなく 『まだ満足に歳を取っていない人間の見る世界が一体どんな風なのか』 に興味があっただけ。 それだけの話。 つまり。 それを手に取ったとて、『彼の小説』を読むことにはならない。 『彼の小説』は読んでいない。 それの証明として、はてさて。 ここで言う『少年』を『名前も知らない普通の人』に変えたのであればどうであろう。 あなたの興味は、一気に無くなったのでないか。 仮にもし、それでも「まだ僕は私は、『その本』とやらに興味がある!」というのであれば、じゃあぜひ私の小説一覧を読んでくれ。 今からプラウザバックをすればすぐ飛んでいけるので。 全部で大体百万字程度な、大したことない量だけど。 暇つぶしには使えると思うので。 ぜひぜひ、読んでくれたら嬉しいです。 ——と言われて、じゃあ見に行こうなんて露ほども思わなかったあなたは、つまりそう言うことなのだ。 あなたは、誰とも知らない人の『小説』を読む気がない。 そして何より、 その小説を読む読まないの以前、 自分の小説を読んで欲しいと頼み込む姿を見て。 読んでくれ、と言う私を見て。 きっと、多くの人は間違いなく心の中で顔をしかめるだろう。 「痛い」 感情で胸がいっぱいになったことだろう。 私は……事実そうなった。 自分で言いながらそう思った。 私はなんて痛いことを言っているんだ、と思った。 そして——当時母親だった私は、当時、息子だった彼の差し出す自作小説を見てこう言った。 「そんな馬鹿なことやってないで、今日の宿題はやったの?」 迷いなくそう言った。 小説を書くと言うことは、馬鹿なことなのだ。 そして、それを見て欲しいなんて言うことはとても痛いことなのだ。 人間の生存本能だろう。 妄想や想像の世界で終始生きていれば、それは確かに楽かもしれないけれど、間違いなく現実においてなんの意味もなさなない。 今がどうなのかは、残念ながら世間に疎い私の預かり知るところではないけれど、少なくとも、原始的なレベルの、マンモスを食べていた時代の人間に遡れば、想像や妄想は間違いなく意味はない。 執筆が、役立つ瞬間なんてない。 百害あっても。 一利もない。 それの名残。 残りが、 痛 いと言う感情になって、人の胸を叩くものの正体だ。 だから私たちはなんとなく。 商業作家と聞けばその痛みは治るし、「仕事で書いている」と言えば、それはなんとなく尊敬の念が湧いてくる。 反対、金ももらっていないのに小説を書いている人を見た途端、読んで欲しげにこちらを見つめる人を見た途端、リツイート企画に飛びついている人を見た途端、胸の中で湧いてくるモヤモヤや、苛立ちや、そして名前のつけられない 痛 いが、あなたの胸を押す。 そして私たちも——こう思うのだ。 「……何あれ」 と。 彼らを見て心の中で笑うのだろう。 結局、小説を書いていることを現実で公表していない人が多い理由だってそうだ。 恥ずかしいのを自覚した結果だ。 何を言われるかわからない恐怖の結果だ。 人という生き物はそういう者なのだ。 みんな——心の中で思っているのだ。 「自分は一体何をやっているのだ」 「自分はなんて馬鹿げたことをやっているのだ」 「自分はなんてふざけたことに時間を費やしているのだ」 そんな自問自答の果て、それでも突き動かすのは果たして。 承認欲求か、自己顕示欲か、金か、夢か、書籍化か、性欲か。 はたまた、『自分のファン』という名の幻想のためか。 なんであれ、その全ては痛々しいだろう。 痛々しいと、思うだろう。 これがあなただ。 そういう意味で言えば「何これ」と、そんな言葉をかけてきたあの人は正しい。 ある意味、中途半端に『納得したフリ』や『称賛するフリ』をしてくる人間より、よっぽどに正直者だ。 腹の中で嘲笑されるより、余程善人的と言える。 (まあ、本能的とも言えるわけでだから、ある意味小説を読むには適さない人ではあるのだろうけれど) 創作を書くということは、自己満足である。 作家は、自分のためにしか小説を書かない。 作家は、自分が書きたい時にしか小説を書かない。 作家は、自分の欲望の道具に小説を使っている。 作家は——自分が気持ちよくなりたいから世界を描くのだ。 誰かのために。 誰かの感動のために。 誰かの涙のために。 誰かの心に残すために。 私は僕は——小説を書いている。 という主張をする人がいるのは知っている。 ありふれて久しいことはわかっている。 しかし——結局それも個人の欲望だ。 それは作家個人の欲望だ。 作家個人の『やりたいこと』だ。 わがままで 傍若無人で 独善的で 自分勝手で 身勝手で 自己中心的で 得手勝手で 厚顔無恥で 人のことなど考えない そんな——紛れもなく汚れだらけな欲望の現れが、 小 説だ。 人のことなど考慮しない。 読者の都合など知ったことではない。 人の時間を奪うことなど考えない。 時間を奪うことなど気に求めていない。 自分の小説は世界で一番の出来なんて本気で思って思考して。 自分の世界は世界で一番輝いていて、眩しくて。 唯一で特別で。 自分の文体は、誰にも真似できない自分だけのもので、自分には才能があって。 自分の物語が、世界で一番面白い。 そんなことを平然と大真面目に心の中で思っている 自意識過剰な生き物 それが 作 家という人間だ。 挙句、そのほとんどが全力で本気だという。 もう……笑う以外ないだろう。 これが痛くなくて、なんであろう。 これが恥ずかしくて、なんであろう。 これがみっともなくて、なんであろう。 これが、作家で、これが小説で。 これが——私だ。 私は今日まで小説を書いてきた。 恥ずかしい創作活動を続けてきた。 みっともない趣味を今日までやってきた。 人に言えないことをやってきた。 胸を張れないようなことをやってきた。 文字を書くたび。 文を作るたび。 章を越えるたび。 本を見返すたび。 書店で並ぶそれらを眺めるたび。 私は思う。 やってしまったと思う。 こんな何にもならないようなことに、時間を費やしてしまったことを後悔する。 やめられないことを、本気で悔いる。 死にたい。 消えてなくなりたい。 このまま誰も知らないところでいなくなってしまいたい。 心の底からそう思う。 誰もいない片田舎に行って。 古屋をたてて。 一人、ひっそり暮らしたい。 私のことを知っている人はいなくて。 私の作品を知っている人はいなくて。 私の本を読む人はいない。 そんな世界。 という世界。 今すぐそこへ駆け付けたい。 向かいたいのが、今の私だ。 ——でも。 だけど。 それでも。 そんな片田舎。 きっと時間はたくさんあるし。 何もないのだから、ものはたくさん置けるだろうし。 机と椅子は置けるだろう。 鉛筆は作れるし、紙は床で十分だ。 人がいないのだから、寂しがり屋の私はだらかと話していることを想像しだすだろう。 話題は……そうだな。 天気のことか、世界の今後のことか、今日取れた野菜のことか、紅茶の茶葉を変えたことか。 それらを考え、想像し、妄想し、会話して。 そして……きっと私は書き留めてしまうのだろう。 忘れないように。 特別な理由もなく、ただなんとなく未来の自分へ、思いを残しておくために。 私は会話を書くのだ。 想像の会話を書くのだ。 いつしか。 それに私は登場しなくなっていて。 いつの間にか、想像の住人は三人に増えていて。 いつだったか、場所はこの古屋では無くなって。 彼ら彼女らは、この狭い世界から抜け出して。 そして、想像上の世界をかけていく。 広く、広く、広い世界にかけていく。 そして。 そうして。 いつの間にかその物語を書き終えた私は。 描き終えてしまった私は。 それが——後悔することだとわかっていても。 それが——痛々しいものであるということは知っていても。 それが——下らないものであると理解していても。 それが——この世に蔓延る中で最低最悪のことであるとはわかっていても。 それが——泥と汚れに塗れた自分の欲望に彩られた動力によって突き動かされているものであったとしても。 きっとまた。 それでもまた。 どうしてもまた。 ——読んでもらいたい。 なんて思って、 私は街に出てしまうんだ。 趣味で書いてる。 勝手にやってる。 遊び、本気、好きだから。 そんな手垢のついた嘘や詭弁はどうでもいいだろう。 私は全てを知っている。 お前の全てを知っている。 その手。 その手に握られた小説が、そんな片手間でできるものじゃないことは理解しているんだ。 締切なんて言葉を使っている時、実は得意げな顔をしてしまっているのも知っている。 設定だけを書いた作品が、何十作とあるのも知っている。 友達に作品を読んでもらっている最中のドキドキも知っている。 その後、言われた辛辣な言葉に傷ついた感情も知っている。 諦めきれずに『小説家になろう』を始めたのも知っている。 PVが伸びなくて、仕方なく『カクヨム』を初めて見たのも知っている。 いつの間にか『カクヨム』一本ということにして、ちょっとした文章が書ける人ぶっているのも知っている。 「一万字ぐらい余裕」なんて言って、レポートに苦しんでいる奴らを馬鹿にしていたのも知っている。 読書感想文を、わざと長文で提出して怒られたのも知っている。 最近本なんてろくに読んでなくて、その言い訳に「文体を変えられたくないんだ」って意味のわからない言い訳をしているのも知っている。 毎日毎日、PV数を眺めてはため息をついているだけなのも知っている。 ちょっと更新ボタンを繰り返し押してみたりするのも知っている。 応援コメントを、自分の作品見て欲しさに書いているのだって知っている。 星評価で一喜一憂を楽しんでいるのも知っている。 レビューをもらった日には、枕に顔を埋めて足をバタバタさせていたのも知っている。 それら全てを包み隠して、なんでもないように振る舞っていたことも知っている。 隠れて、コンテストに応募しているのも知っている。 あっけなく落ちたのも知っている。 内心ドキドキなのに、気にしていないフリをするのも知っている。 何回だってプラウザの更新を待っていたのも知っている。 いい年になっても小説を書いていることも、それをなかなか言い出せないことも知っている。 もう、十分にわかっている。 十分すぎるほどにわかっている。 だってそれが私なのだから。 だってそれは私なのだから。 私のことを一番知っているのは私で。 私以外いないのだから。 私は、私が、どんなに愚かなのかを知っている だから。 だから、きっとあなただって、 あなたがどんなに愚かなのかを知っているはずなのだ。 そもそも。 言い訳なんて、すでに言い飽きただろう。 言い飽きて、口癖になっただろう。 そんな、安い保険を掛けて。 何歳のつもりだ。 まだお前が、小学生ならいいけども。 もういい年だろう。 いい加減現実を見ろ。 第一、お前ごときの言い訳なんて、誰も聞いてないし覚えてないんだから。 だからそんな無駄なことは書くな。 もう、いいだろう。 もう、いい加減、自分に嘘を言いすぎただろう。 十分誤魔化しただろう。 私たちはダサい。 これ以上なくみっともない生物で。 この世に生きる生物の中で最も劣った存在で。 すぐさま自分をごまかす偽善者で。 現実が見えない精神異常者で。 面白くもない文章を、ただ——世に悪戯に垂れ流すだけの機械。 どうしようもないぐらい手遅れで、情けなくて、ゴミのように生きている価値のない、悪戯に二酸化炭素を消費するだけの迷惑物。 そんな事実を直視しよう。 そんな自分を客観しよう。 悲観的なまでに悲観的になろう。 そして、 そうまでして。 それほどまでして、自分の中に巣食う欲望を直視してまでして。 散々嫌気がさして。 馬鹿らしくなって。 全てがどうでも良くなって。 「けれど」 「それでも」 「だけれども」 俺は 小 説 を 書 き た い なんて。 そんな言葉が心の淵から蘇ってきたあなたの小説を、 私はぜひ、読んでみたい。 そんな小説を私も書きたいと、思うのです。 ですのでぜひぜひ——こんな愚かな私めに、あなたの自信作、見せてくださいな。 ——以上。 長くなりましたが——これで『私が小説を書く理由』を終わりにします。 聞き苦しい中の御清聴、どうもありがとうございました。

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飛び石 の しゅん 小説

執筆というのはとても 痛 いことだ。 自分の頭の中にあるものを具現させ、体現させ、それを何かしらの形に変えて世の中に生み出す。 妄想や、想像や、夢や、希望や、願いや、盲信を、 感情や、感動や、感涙や、感覚や、感謝や、感激を求めてものを作る行為。 そんなものは——あまりに痛い痛々しい。 痛くて痛くて、痛々しくて。 よもやそれを直視することもできないぐらい。 恥ずかしく、醜く、くだらなくて、馬鹿らしい。 自分の中にたまった思いをため込んで それを消化し、昇華する。 ため込んだ思いを拭き取るように、洗い流すように。 満足感と充足感に浸りながら、震えながら。 一人、ひっそりため息ついて、現世に帰る。 こんなもの——ほとんどマスターベーションだ。 ……いや、違う。 まだ自慰行為のほうが健全か。 自慰行為であれば、それはほとんど全て自己完結の世界で起こる。 自己の中だけで完結するものだ。 しかし。 しかし執筆活動は違う。 そうじゃない。 自分の抱えているものを全てさらけ出したその薄汚い何かを 書き終えた後、切実に誰かに見て欲しいと思ってしまうのが執筆なのだ。 いわば、露出狂。 自分の内面から湧き出た産物を他人に見て欲しいと願う変態。 ど変態。 それが作家で。 そんなものが執筆で。 そういうものが創作なのだ。 情勢として、状況として。 AIだかなんだか、機械たちの発達によってクリエイティビティの必要性が高まってきた最近だと、そんな創作活動における想像力の重要性を見直す論議が枚挙にいとまないけれど、しかし私に言わせれば、そんなものなど、ほとんど『アホらしい』ことである。 馬鹿らしいでもいいけれど。 まあ、ほとんど類義語か。 とにかく、さておき、そんな議論は全てどうでもいい。 誰がなんと言おうと——それこそ世界中でその重要度が上がっていようと——結局、妄想というのは第一印象として、『痛い』と受け取られる行為である。 妄想というのはそもそも『痛い』ことである。 現実を見ろ。 事実を見ろ。 目の前を見ろ。 そんな風に、そんな感じに。 圧倒的に正しい人間から、正しいところに身を置く人間から。 哀れみまじりな笑みと、ひとつまみの慈愛と嫉妬を持って、高みから。 ほとんどが冷たい無関心に彩られた色のない視線のままに。 彩の失われた光の瞳で。 ただ——考えなしに言われるのだ。 「何それ?」 と。 気にしないフリはしてきた。 聞こえないフリはもう慣れた。 笑ってごまかすことは何度したかわからない。 それで。 それで何より。 冷たい目を向ける『正しい人』へ。 私たちがする行為というのはいつも決まっていて。 いつも決まりきっていて。 わかりきっていて。 「好きだから」 なんて。 曖昧で、不確かで、不安定で。 答えにすらなっていない。 そんな無様な『答え』を、作家たちは言うのだろう。 「好きだから」 「好きにやっているだけだから」 「勝手にやっていることだから」 「本気じゃないから」 「遊びだから」 「趣味だから」 「だから——」 何も言わず、放っておいてくれよ。 もし、多少行動力がある人であれば、きっとその言葉をTwitterにでも投げるのだろう。 イエスマンしかおらず、ブロックとミュートに彩られた、なんの変哲もない安心で安全な空間へ。 「何それ」 と言う、その人にとって罪にあふれた言葉の主人を責める文と共に、 「……とても傷つきました。 私、もう小説はやめたほうがいいでしょうか?」 なんて、 そんな水に濡れた子羊の皮を被ったみっともない文章と共に。 後ろから、彼は石を投げるのだろう。 みんなと石を投げ合うのだろう。 ——誰に届いてもいない石を。 ただ、みんなで投げつけている『フリ』をするんだろう。 そして。 そこそこ『いいね』と『リツイート』 優しい傷を舐める『リプ』 それら与えられた、無感情な電子データを眺めて、一言。 「やっぱり私は正しかった」 と。 ケータイを閉じて、ホーム画面に戻って、全てを忘れるのだろう。 誰もいない中。 もう誰も聞いていない言葉を吐いて。 議論を放棄し、自責を放棄し、集団に逃げ、自分の中に隠れた羞恥と周知からの視線にすら、頑なによそ見を決め込み、まぶたを閉じて、目を閉じて、最終的には耳を塞ぐ。 自分の都合の良い世界を現実だと誤解して、それ以外をくだらない価値観だと放棄して。 ただ、自分勝手にオナニーを続ける日々に戻る。 なんとも馬鹿らしい。 アホらしい。 情けない。 あまりに情けなさすぎて、もはや反吐が出るレベル。 もういっそ、愚かと言ったほうがいいかもしれない。 それが救いになるかもしれない。 自虐になるなら——それは救いかもしれない。 執筆というのは 痛 いものなのだ。 それはアマチュアだろうとプロフェッショナルだろうと、関係ない。 痛くてダサくて、誤魔化しきれないほどに嘲笑を集めてしまうものなのだ。 じゃあ仮に。 仮の話で。 「実は俺……小説書いてるんだ!」 これを言う少年がいたとして。 原稿用紙を持って、それを言ってくる少年がいたとして。 あなたは、一体何を思うだろうか。 何を思って、そして何を言うだろうか。 彼になんと言ってやれるだろうか。 ——心の底から『すごい』 と思って ——この年でもう小説を書けるなんて。 そう思って。 そして、 物を指差し、それを手にとり 「読ませてくれる?」 なんて。 そんなことをあなたは思えたのだろうか。 言ったのだろうか。 きっと確かに、興味はあるだろう。 興味はあったし、手には取ったのだろう。 けれど、しかし。 それは本質的に『彼の小説』に興味があったのではない。 そうではなく 『まだ満足に歳を取っていない人間の見る世界が一体どんな風なのか』 に興味があっただけ。 それだけの話。 つまり。 それを手に取ったとて、『彼の小説』を読むことにはならない。 『彼の小説』は読んでいない。 それの証明として、はてさて。 ここで言う『少年』を『名前も知らない普通の人』に変えたのであればどうであろう。 あなたの興味は、一気に無くなったのでないか。 仮にもし、それでも「まだ僕は私は、『その本』とやらに興味がある!」というのであれば、じゃあぜひ私の小説一覧を読んでくれ。 今からプラウザバックをすればすぐ飛んでいけるので。 全部で大体百万字程度な、大したことない量だけど。 暇つぶしには使えると思うので。 ぜひぜひ、読んでくれたら嬉しいです。 ——と言われて、じゃあ見に行こうなんて露ほども思わなかったあなたは、つまりそう言うことなのだ。 あなたは、誰とも知らない人の『小説』を読む気がない。 そして何より、 その小説を読む読まないの以前、 自分の小説を読んで欲しいと頼み込む姿を見て。 読んでくれ、と言う私を見て。 きっと、多くの人は間違いなく心の中で顔をしかめるだろう。 「痛い」 感情で胸がいっぱいになったことだろう。 私は……事実そうなった。 自分で言いながらそう思った。 私はなんて痛いことを言っているんだ、と思った。 そして——当時母親だった私は、当時、息子だった彼の差し出す自作小説を見てこう言った。 「そんな馬鹿なことやってないで、今日の宿題はやったの?」 迷いなくそう言った。 小説を書くと言うことは、馬鹿なことなのだ。 そして、それを見て欲しいなんて言うことはとても痛いことなのだ。 人間の生存本能だろう。 妄想や想像の世界で終始生きていれば、それは確かに楽かもしれないけれど、間違いなく現実においてなんの意味もなさなない。 今がどうなのかは、残念ながら世間に疎い私の預かり知るところではないけれど、少なくとも、原始的なレベルの、マンモスを食べていた時代の人間に遡れば、想像や妄想は間違いなく意味はない。 執筆が、役立つ瞬間なんてない。 百害あっても。 一利もない。 それの名残。 残りが、 痛 いと言う感情になって、人の胸を叩くものの正体だ。 だから私たちはなんとなく。 商業作家と聞けばその痛みは治るし、「仕事で書いている」と言えば、それはなんとなく尊敬の念が湧いてくる。 反対、金ももらっていないのに小説を書いている人を見た途端、読んで欲しげにこちらを見つめる人を見た途端、リツイート企画に飛びついている人を見た途端、胸の中で湧いてくるモヤモヤや、苛立ちや、そして名前のつけられない 痛 いが、あなたの胸を押す。 そして私たちも——こう思うのだ。 「……何あれ」 と。 彼らを見て心の中で笑うのだろう。 結局、小説を書いていることを現実で公表していない人が多い理由だってそうだ。 恥ずかしいのを自覚した結果だ。 何を言われるかわからない恐怖の結果だ。 人という生き物はそういう者なのだ。 みんな——心の中で思っているのだ。 「自分は一体何をやっているのだ」 「自分はなんて馬鹿げたことをやっているのだ」 「自分はなんてふざけたことに時間を費やしているのだ」 そんな自問自答の果て、それでも突き動かすのは果たして。 承認欲求か、自己顕示欲か、金か、夢か、書籍化か、性欲か。 はたまた、『自分のファン』という名の幻想のためか。 なんであれ、その全ては痛々しいだろう。 痛々しいと、思うだろう。 これがあなただ。 そういう意味で言えば「何これ」と、そんな言葉をかけてきたあの人は正しい。 ある意味、中途半端に『納得したフリ』や『称賛するフリ』をしてくる人間より、よっぽどに正直者だ。 腹の中で嘲笑されるより、余程善人的と言える。 (まあ、本能的とも言えるわけでだから、ある意味小説を読むには適さない人ではあるのだろうけれど) 創作を書くということは、自己満足である。 作家は、自分のためにしか小説を書かない。 作家は、自分が書きたい時にしか小説を書かない。 作家は、自分の欲望の道具に小説を使っている。 作家は——自分が気持ちよくなりたいから世界を描くのだ。 誰かのために。 誰かの感動のために。 誰かの涙のために。 誰かの心に残すために。 私は僕は——小説を書いている。 という主張をする人がいるのは知っている。 ありふれて久しいことはわかっている。 しかし——結局それも個人の欲望だ。 それは作家個人の欲望だ。 作家個人の『やりたいこと』だ。 わがままで 傍若無人で 独善的で 自分勝手で 身勝手で 自己中心的で 得手勝手で 厚顔無恥で 人のことなど考えない そんな——紛れもなく汚れだらけな欲望の現れが、 小 説だ。 人のことなど考慮しない。 読者の都合など知ったことではない。 人の時間を奪うことなど考えない。 時間を奪うことなど気に求めていない。 自分の小説は世界で一番の出来なんて本気で思って思考して。 自分の世界は世界で一番輝いていて、眩しくて。 唯一で特別で。 自分の文体は、誰にも真似できない自分だけのもので、自分には才能があって。 自分の物語が、世界で一番面白い。 そんなことを平然と大真面目に心の中で思っている 自意識過剰な生き物 それが 作 家という人間だ。 挙句、そのほとんどが全力で本気だという。 もう……笑う以外ないだろう。 これが痛くなくて、なんであろう。 これが恥ずかしくて、なんであろう。 これがみっともなくて、なんであろう。 これが、作家で、これが小説で。 これが——私だ。 私は今日まで小説を書いてきた。 恥ずかしい創作活動を続けてきた。 みっともない趣味を今日までやってきた。 人に言えないことをやってきた。 胸を張れないようなことをやってきた。 文字を書くたび。 文を作るたび。 章を越えるたび。 本を見返すたび。 書店で並ぶそれらを眺めるたび。 私は思う。 やってしまったと思う。 こんな何にもならないようなことに、時間を費やしてしまったことを後悔する。 やめられないことを、本気で悔いる。 死にたい。 消えてなくなりたい。 このまま誰も知らないところでいなくなってしまいたい。 心の底からそう思う。 誰もいない片田舎に行って。 古屋をたてて。 一人、ひっそり暮らしたい。 私のことを知っている人はいなくて。 私の作品を知っている人はいなくて。 私の本を読む人はいない。 そんな世界。 という世界。 今すぐそこへ駆け付けたい。 向かいたいのが、今の私だ。 ——でも。 だけど。 それでも。 そんな片田舎。 きっと時間はたくさんあるし。 何もないのだから、ものはたくさん置けるだろうし。 机と椅子は置けるだろう。 鉛筆は作れるし、紙は床で十分だ。 人がいないのだから、寂しがり屋の私はだらかと話していることを想像しだすだろう。 話題は……そうだな。 天気のことか、世界の今後のことか、今日取れた野菜のことか、紅茶の茶葉を変えたことか。 それらを考え、想像し、妄想し、会話して。 そして……きっと私は書き留めてしまうのだろう。 忘れないように。 特別な理由もなく、ただなんとなく未来の自分へ、思いを残しておくために。 私は会話を書くのだ。 想像の会話を書くのだ。 いつしか。 それに私は登場しなくなっていて。 いつの間にか、想像の住人は三人に増えていて。 いつだったか、場所はこの古屋では無くなって。 彼ら彼女らは、この狭い世界から抜け出して。 そして、想像上の世界をかけていく。 広く、広く、広い世界にかけていく。 そして。 そうして。 いつの間にかその物語を書き終えた私は。 描き終えてしまった私は。 それが——後悔することだとわかっていても。 それが——痛々しいものであるということは知っていても。 それが——下らないものであると理解していても。 それが——この世に蔓延る中で最低最悪のことであるとはわかっていても。 それが——泥と汚れに塗れた自分の欲望に彩られた動力によって突き動かされているものであったとしても。 きっとまた。 それでもまた。 どうしてもまた。 ——読んでもらいたい。 なんて思って、 私は街に出てしまうんだ。 趣味で書いてる。 勝手にやってる。 遊び、本気、好きだから。 そんな手垢のついた嘘や詭弁はどうでもいいだろう。 私は全てを知っている。 お前の全てを知っている。 その手。 その手に握られた小説が、そんな片手間でできるものじゃないことは理解しているんだ。 締切なんて言葉を使っている時、実は得意げな顔をしてしまっているのも知っている。 設定だけを書いた作品が、何十作とあるのも知っている。 友達に作品を読んでもらっている最中のドキドキも知っている。 その後、言われた辛辣な言葉に傷ついた感情も知っている。 諦めきれずに『小説家になろう』を始めたのも知っている。 PVが伸びなくて、仕方なく『カクヨム』を初めて見たのも知っている。 いつの間にか『カクヨム』一本ということにして、ちょっとした文章が書ける人ぶっているのも知っている。 「一万字ぐらい余裕」なんて言って、レポートに苦しんでいる奴らを馬鹿にしていたのも知っている。 読書感想文を、わざと長文で提出して怒られたのも知っている。 最近本なんてろくに読んでなくて、その言い訳に「文体を変えられたくないんだ」って意味のわからない言い訳をしているのも知っている。 毎日毎日、PV数を眺めてはため息をついているだけなのも知っている。 ちょっと更新ボタンを繰り返し押してみたりするのも知っている。 応援コメントを、自分の作品見て欲しさに書いているのだって知っている。 星評価で一喜一憂を楽しんでいるのも知っている。 レビューをもらった日には、枕に顔を埋めて足をバタバタさせていたのも知っている。 それら全てを包み隠して、なんでもないように振る舞っていたことも知っている。 隠れて、コンテストに応募しているのも知っている。 あっけなく落ちたのも知っている。 内心ドキドキなのに、気にしていないフリをするのも知っている。 何回だってプラウザの更新を待っていたのも知っている。 いい年になっても小説を書いていることも、それをなかなか言い出せないことも知っている。 もう、十分にわかっている。 十分すぎるほどにわかっている。 だってそれが私なのだから。 だってそれは私なのだから。 私のことを一番知っているのは私で。 私以外いないのだから。 私は、私が、どんなに愚かなのかを知っている だから。 だから、きっとあなただって、 あなたがどんなに愚かなのかを知っているはずなのだ。 そもそも。 言い訳なんて、すでに言い飽きただろう。 言い飽きて、口癖になっただろう。 そんな、安い保険を掛けて。 何歳のつもりだ。 まだお前が、小学生ならいいけども。 もういい年だろう。 いい加減現実を見ろ。 第一、お前ごときの言い訳なんて、誰も聞いてないし覚えてないんだから。 だからそんな無駄なことは書くな。 もう、いいだろう。 もう、いい加減、自分に嘘を言いすぎただろう。 十分誤魔化しただろう。 私たちはダサい。 これ以上なくみっともない生物で。 この世に生きる生物の中で最も劣った存在で。 すぐさま自分をごまかす偽善者で。 現実が見えない精神異常者で。 面白くもない文章を、ただ——世に悪戯に垂れ流すだけの機械。 どうしようもないぐらい手遅れで、情けなくて、ゴミのように生きている価値のない、悪戯に二酸化炭素を消費するだけの迷惑物。 そんな事実を直視しよう。 そんな自分を客観しよう。 悲観的なまでに悲観的になろう。 そして、 そうまでして。 それほどまでして、自分の中に巣食う欲望を直視してまでして。 散々嫌気がさして。 馬鹿らしくなって。 全てがどうでも良くなって。 「けれど」 「それでも」 「だけれども」 俺は 小 説 を 書 き た い なんて。 そんな言葉が心の淵から蘇ってきたあなたの小説を、 私はぜひ、読んでみたい。 そんな小説を私も書きたいと、思うのです。 ですのでぜひぜひ——こんな愚かな私めに、あなたの自信作、見せてくださいな。 ——以上。 長くなりましたが——これで『私が小説を書く理由』を終わりにします。 聞き苦しい中の御清聴、どうもありがとうございました。

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飛び石 の しゅん 小説

「マザーウォーター」「けいおん! 」に登場!京都の賀茂大橋近くの鴨川で飛び石を探す 川、好きなんです。 川沿いでのんびりと時間を過ごしたり、川沿いの土地ならでは風景を楽しんだりと、旅では川の近くに行きたくなる習性が僕にはありまして。 昨年京都に訪れた時も、興味を惹かれたのが鴨川。 鴨川沿いには川床があったりと独自の雰囲気があり、散歩やサイクリングなど、思い思いに時間を過ごせる憩いの場として人気。 今回向かったのは京都御所近くの賀茂大橋。 この賀茂大橋から上流は、賀茂川と高野川の二股にわかれます。 近くには出町柳駅がありますよ。 デートスポットとしても人気だと聞く鴨川。 昨年祇園に訪れた際、鴨川に架かる橋を渡っていると、橋の下の川沿いにはカップルが多くいたのを覚えています。 鴨川の飛び石に早速飛び乗りに…… 賀茂大橋の横から川近くまで降り、早速飛び石を探します。 ん、なんだか川の流れが激しいような……。 この日の前日、実は大雨が降っていたのでした。 うん、これは実に嫌な予感がしますねw やっぱり。 ここに飛び石が対岸まで続いているはずなのですが、シンボルである亀の形の石が少し顔を出しているくらいで、大半の石は川の中に浸かっています。 頭の中では飛び石にタタターンと飛び乗って、対岸まで行くつもりだったのですが……。 川の流れがなかなかに急で、これじゃ足を取られて流されてしまいますね。 残念ながらも、ここまで駄目だと笑えるくらいでしたw 悔しくて飛び石リベンジ! 増水により飛び石が川の中に浸かっていた日の翌日。 飛び石を見ることもできなかったのが悔しくて、鴨川に再度訪れてみました。 この日は川の流れも前日よりは緩やかになっています。 おおお。 飛び石がしっかりと顔を出しています。 ようやく全貌が見えました。 念願の飛び石、近くに行ってみましょう。 と、一足早く先客が飛び石へ。 飛び石に乗った制服姿の女の子をカメラマン2人が撮影しています。 最初見たときはどういうシチュエーション?と首を傾げたのですが、カメラマンの方がわかりやすく「けいおん! 」のパーカーを着ていたことで思い出しました。 そういえばこの飛び石、「けいおん! 」のオープニングか何かでも登場していましたね。 撮影終わりを見計らって飛び石近くへ。 僕の場合、この景色を見て思い浮かぶのは映画「マザーウォーター」なのです。 昨年京都に訪れた際、宿泊したゲストハウスの近くにあった銭湯にはいったところ、そこがたまたまマザーウォーターに登場するオトメ湯だったりしたこともありました。 飛び石に飛び乗って対岸の方へ。 川の上を歩いているかのようで面白く、落ちてしまいそうなヒヤヒヤ感もまた楽しい体験になりました。 まとめ ちなみに、中ほどから飛び石が水をかぶってしまっていたので、結局対岸までは渡ることができませんでした。 行くのであれば、前日の天候も考慮に入れておいた方がいいかもしれません。 飛び石の上から眺める鴨川を含めた景色が素敵なので、近くに訪れた際にはぜひ! 再訪できて時間がとれるのであれば、鴨川で2〜3時間飲んでいたいなぁ。 好きな川です。 アーカイブ• 11 カテゴリー• 387• 223• 256• 121• 129•

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