マーク・ボラン。 ベルベット・ゴールドマイン〜マーク・ボランやデヴィッド・ボウイがいたグラマラスな日々|TAP the SCENE|TAP the POP

マーク・ボラン(ces.massrelevance.com)疾走と衝撃の結末

マーク・ボラン

The Holy Holy winter tour ended last night in Cambridge to an extremely enthusiastic crowd. It took me about 20 minutes to consume every last splinter. This is the first bite. — Tony Visconti Tonuspomus 音楽プロデューサー・トニー・ヴィスコンティ。 デヴィッド・ボウイやT. Rexのプロデュース作品が有名なのでてっきりイギリス人だと思っていましたが、実はアメリカ出身です。 1944年にニューヨークで生まれた彼は子供の頃から楽器に親しみ、ティーンの頃にはブラスバンドに参加(チューバ担当)したり、地元のバンドでギターを弾いたりしていたそうです。 1960年からレコーディングセッションなどに参加しはじめ、1966年には当時の奥さんと「Tony and Siegrid」名義でシングルを二枚リリースします。 ニューヨークでローカルヒットしましたが、長続きはしませんでした。 それから音楽出版社「リッチモンド・オーガナイゼーション」の専属プロデューサーとして働き始めます。 仕事を通じて、プロコル・ハルムの「A Whiter Shade of Pale」(青い影)などを手掛けたイギリス人音楽プロデューサーのデニー・コーデルと出会い、彼の要請で 1968年にロンドンに移住。 ここから彼の本格的なキャリアが始まります。 )』を手掛け、それから1974年のT. Rex『Zinc Alloy and the Hidden Riders of Tomorrow(ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー)』までマーク・ボランとの音楽制作は続くことに。 また、ボウイとは1969年にファーストアルバム『David Bowie』のプロデュースで出会い、遺作となった2016年の『Black Star』にいたるまで、定期的にアルバム制作に関与することになります。 以下は、2015年ティラノザウルス・レックス時代の初期の三枚がリイシューされた際、イギリスのGuardian誌に掲載されたトニー・ヴィスコンティのインタビューの訳です。 原文はから。 )』はいつ聴いても酷い出来だった。 私たちは低予算の被害者で、自分たちが何をしているのかもさっぱり分からなかったんだ。 音がとても薄くて、素晴らしい二人組の良さを十分に表現できていなかった。 文字通りに二日でレコーディングしたんだよ、三日だったかな。 四日目に全曲分ミックスしてね。 だから今回リマスターの機会を与えられて、最後にやり残していた仕事をしなければならなかったんだ。 大変だったけど、とても豊かな音になったと思う。 彼らには非常に限られたオーディエンスしかいなかったんだ、ほとんどがジョン・ピールのファンだったね。 彼らは最もアンダーグラウンドなシーンを求めていて、それらをとても大事にしていたんだ。 そういったファンが何人いたのかも知っているよ。 2万人さ。 アルバムはいつも2万枚売れていたからね。 マークは自分がボブ・ディランかドノヴァンのつもりでいたんだよ。 彼は自分をフォークロック詩人と見てほしかったんだけど、ライブでティーンエイジャーの女の子たちが彼に向かって黄色い声を上げ始めた途端に彼はポップスターになった。 ジョン・ピールだとか、彼をキュートなヒッピーボーイだと思って敬愛していた人たちは、そこで彼から離れていったんだ。 マークは全然ヒッピーじゃないよ。 レコーディングした時もまだ両親と一緒に住んでいたしね。 幻覚剤だって一度もやったことはなかったけど、間違いなくそれらしい恰好はしてた。 彼はよく分かっていたから。 彼はとてもセンシティブで、ポエティックだった。 彼の曲はすべて、本当に、本当にまっすぐで誠実だよ。 歌詞はただただ美しくて、トールキン的な部分も少しあるけど、たくさんのポップ・フィロソフィーが詰まってる。 彼がそれらを利用してるなんてことはなかった。 でもさ、ほら、彼は全然正直者じゃなかったし、マスコミをコントロールできると思ってたんだよ。 そんな時に、彼の虚勢や自慢が人には鼻についたんだろうね。 嘘ばかりついて一時全然信じられなかったから。 スティーヴはとてもクリエイティブな「もう一つの」声だったよ。 素晴らしいバックアップシンガーで、彼のアイデアはとてもユニークだった。 スティーヴはT. Rex期でもやれたと思うけど、なんというか、とても傷ついた人だった。 まるで別の星からやってきたみたいで。 彼はたまに路上で寝起きしていて、ドラッグもたくさんやっていたから、逮捕されてしまったんだ。 あれがマークにとってのターニングポイントだった。 スティーヴが2週間か1ヵ月か拘置所で過ごすことになって、それっきりだった。 マークが『僕のオーディエンスはティーンエイジャーだから、ドラッグ中毒者をこれ以上バンドに入れておけないよ』と言ってね。 スティーヴが「自分の曲もやりたい」と言い始めた時がマークにとって我慢の限界だったんだ。 ドラッグの乱用と、スティーヴも半分の楽曲でイニシアティブを取りたいという希望に、マークはもう手に負えなかったんだ。 ただ私は彼のことがとても好きだった。 彼がホームレス生活をしている時は私の家で寝泊まりしたりしてね。 実際彼とはとても親しい間柄だった。 デヴィッドはもっと「いいヤツ」って感じだったね。 彼は自分がムーヴメントの一部であると感じていて。 彼はベッケンハムのスリー・タンズにアートラボを持っていて、キース・クリスマスやラルフ・マクテルといった仲間たちが活動出来る場をそこに設けていたんだ。 マークは誰もがライバルだと思っていて、デヴィッドに対しても同じように思っていた。 一方でデヴィッドはみんなのために、って思ってたから。 彼らは私の家でよく一緒になってね、ニュートラルな場所だったから、私たちはみんな仲良くやっていたよ。 確か1本の安いワインを10人くらいでまわして飲んで、あとはお茶を何杯も飲んだよ。 一緒にジャムセッションをして、レコードを聴いて。 最高の時間だった。 彼らは私より若くて、まだ母親と一緒に住んでいたね。 さしずめ私はアールズ・コートに住む年上アメリカ人のいとこってところかな。

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マーク・ボランを語るトニー・ヴィスコンティ (2015)

マーク・ボラン

盟友ミッキー・フィン にで生まれる。 ソロデビュー。 ににギタリストとして加入するも、3か月で脱退。 その後、スティーブ・ペレグリン・トゥックとアコースティック・デュオ「」を結成。 後に、パートナーをミッキー・フィンに変えてエレクトリック路線に変更し、に「 」に改名してからヒット曲を連発。 に、ムーヴメントの第一人者として活動する。 代表曲には「ゲット・イット・オン」「メタル・グゥルー」「チルドレン・オブ・ザ・レボリューション」「イージー・アクション」「20センチュリー・ボーイ」「ザ・グルーバー」「トラック・オン」「ライト・オブ・ラブ」などがある。 、ロンドン郊外のにおいてで世を去った。 はのグロリア・ジョーンズ(はジューン・チャイルド)が運転しており、ボランは助手席に乗車していた。 事故は車が大破するほど大きかった。 ボランの死の状況については様々な説が流布したが、9月17日付の英国ガーディアン紙は「ボランは即死」 Marc Bolan was killed instantly と記述し、流説を明確に否定した。 なお、グロリア・ジョーンズも、あごの骨折と顔面にかなりの負傷を負っている。 に凝っていた時期があり、また「 僕は30歳まで生きられないだろう」とめかして語っていたと言う話は有名である。 結果的に彼が亡くなったのは、30歳のの2週間前であった。 その他 [ ]• 日本のロックバンド・の楽曲「電波Boogie」(アルバム『』収録)の歌詞に、伝聞形ではあるがボランが登場している。 グロリアとの間には一人息子のロラン・ボランがいて、彼もミュージシャンとして活動している。 ボランの遺産は、正妻のジューン・チャイルドが相続したために、グロリアとロランには何も残されなかったが、ボランの友人だったデヴィッド・ボウイがロランのために援助することを表明していた。 最晩年の1977年には自身が司会を務めるTV番組がスタートし、当時のイギリスの人気アーティストが数多く出演した。 合計6回分が収録されたが、第4回の放映から2日後にマークは交通事故死した。 ちなみに最終回にはが出演し、番組の最後は彼とマークが共に演奏し、ボウイが歌い出そうとする途中で終わるというものだった。 ギャラリー [ ]• SPICE 2020年1月16日. 2020年5月10日閲覧。 Pauldunoyer. com. 2017年6月28日閲覧。 BARKS 2020年1月17日. 2020年5月10日閲覧。 Gurdian article 17 September 2015, Marc Bolan was killed instantly• Philip Auslander, Performing Glam Rock: Gender and Theatricality in Popular Music Ann Arbor, University of Michigan Press, 2006• Rock, Mick, Glam! An Eyewitness Account Omnibus Press, 2005• - シンコーミュージック• 外部リンク [ ]• (英語)• (英語)• (英語)• (日本語)• (ドイツ語) (英語)• (英語)• (英語).

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Rock|T

マーク・ボラン

本日、9月16日はマーク・ボランの命日である。 妖しいフォーク・デュオ、ティラノサウルス・レックスがロック化したT-レックスは事件だった。 それまで英米のロックではユニセックスなアーティストはほとんどいなかったからだ。 化粧が好きなミック・ジャガーがオカマっぽくふるまう場面もあったが、マーク・ボランの甘く震えながらささやく鼻にかかった声は、男にとって「男もイイな」と性の概念をトロけさせるヤバいものがあった。 女子はみんなマークに夢中だったが、日本の男子ロック・ファンにも性的に多様な道を選ぶ可能性を与えたのがマーク・ボランだ。 化粧はバンドに流行りだした。 それが遠くビジュアル系まで繋がる。 ラメも流行った。 マークのまとう肩幅の広いラメのジャケットは、売れに売れ、重度のファンだった僕の千葉の中学のクラスメイトはジャケットだけを買い、完全に持ち腐れた。 着ていける場所など千葉にはどこにもなかったからだ。 1971年秋「電気の武者」の発売直後は、加藤和彦のように耳の早い人が話題にしている感じだったが、72年初頭のシングル「テレグラム・サム」のヒットで日本のシーンには完全に火がついた。 ビートルズ不在の穴を埋めた感があった。 当時はレッド・ツェッペリンが王者だったが、ツェッペリンにはない性的アイドルの匂いがあったのだ。 歌舞伎の女形の伝統を持つ日本は、欧米よりもこうした存在に敏感だ。 60年代末のグループサウンズでは、沢田研二やオックスの赤松愛が女性的オーラを発し、世界でも特異なジェンダー的状況を作りだしていた。 しかしマーク・ボランがGSをぶっ飛ばすようなインパクトがあったのは、その麻薬的音像である。 それは薬物体験を持たない青少年も官能させる「ドラッギー」な響きに充ち満ちていた。 60年代のサイケデリック・ロックはハッピーでアッパーな輝きはあったのだが、T-レックスは、精神のインナーワールドに直接響く、ダウナーな感触を持ち合わせていたことが画期的だった。 アチラの世界はアッパーだけでは語れない。 日本少年少女はマークから「心のアンダーグランド」を学んだのではないだろうか? 必殺のギターリフにストリングスのからむミディアムなグルーヴも特別だった。 グラムロックは、スピード感やハードロック的ドタスタ感のインパクトに頼らない、ミドル・テンポの渋いブギーだ。 まだまだグルーヴ音痴だった日本のロック・ファンをハイ・テンポにならずイケイケにさせた、さりげなく凄い功績。 日本の少年少女をロックのグルーヴに入門させたのもマークではないだろうか? そしてなんといっても、鼻声を「アイドルの声」という響きに昇格させた意義が大きい。 一般的2枚目的な美声ではない、グニュっと低い声の印象がスターのテイストに塗りかえられた。 72年8月1日に、郷ひろみがデビューするのだが、マーク・ボランのヒットは影響はしていないだろうか?声の妖しさには共通性がある。 出典未確認だが、近田春夫が当時、郷ひろみを「和製マーク・ボラン」と評したという話しもある。 1972年はマークと郷ひろみの当たり年なのだ。 ギターボーカル&パーカッションという編成については、ティラノサウルス・レックス時代からPANTA率いる頭脳警察が向こうを張っていた。 ピックアップをとりつけたアコースティック・ギターとコンガという編成、PANTAとマーク、カーリーヘアの見た目が似ていた。 頭脳警察の音楽は主張もビートも、T-レックスより激しかったが。 T-レックスとなった頃、頭脳警察のステージもドラムを入れたバンド編成が増えた。 マークとPANTAはロックのセックスシンボルという意味でも良き時代のライバルであった。

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