檜原麻希 オードリー。 檜原麻希

【ラジオ】<オードリーは「ニッポン放送にとって宝」>社長が感謝するオールナイトニッポン人気

檜原麻希 オードリー

編成局長時代から知る記者が勝手に抱いているイメージだ。 「社長就任の内示を受けたとき、『え?』って感じで過呼吸になるくらい驚きましたよ」と言いながら、「私が必要とされたのか、時代の流れで女性初というクレジットに意味があったのか、自分では分かりません。 たまたまです」と笑い飛ばした。 ルーツを探るため、音楽の話を振ってみた。 「洋楽派で異常なるクイーンファン。 邦楽も聴いていましたよ。 (宇崎竜童がボーカルのロックバンド)ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの追っかけでした」 当時の若者は音楽を聴くときはFM、トークを聴きたいときはAMが定番だった。 「私はAM派。 神奈川県に住んでいたのでTOKYO FMは(電波が)入らないし、J-WAVEなんてない時代。 ニッポン放送が一番クリアに聴けたから、小学高学年の頃から好きでした。 翌朝学校で話題になるので、試験勉強をしながら何時まで起きて聴けるか、でした」 パリに住んでいた高校時代、特に好きだったのが「宇崎竜童のオールナイトニッポン」。 「録音したテープを日本から送ってもらって聴いていました。 手紙でリクエストも出していましたね」。 当時からニッポン放送愛は深かった。 男女雇用機会均等法が制定された1985年に入社。 「会社に入って、好きだった人たちに会えるって幸せなこと。 宇崎さんはもちろん、松任谷由実さん、大瀧詠一さんもそうでした」。 親交を深めたユーミンには、編成局長だった2012年に「スペシャルウイーク編成局長」を依頼した。 「由実さんは、会社に通って会議にも出てくれた。 全ての番組へのコメントも頼みました」。 1週間限定の就任ながら、名刺も作った。 新聞のトップ記事を飾るほど話題になり、聴取率も上昇した。 「ラジオって、人間交差点みたいなメディア。 リスナーとの距離が近いから、パーソナリティーもラジオをたまらなく好きになるんです」 デジタルコンテンツ部長だった07年、東京・丸の内から発信するデジタルラジオ局「スォーノ・ドルチェ」(イタリア語で「甘い音楽」)を開局させた。 「テレビはデジタル化していたのに、ラジオはまだアナログで危機感があった。 また当時、丸の内仲通りには銀行が並んでいて、夜はシャッター通りでした」 OLの聖地に「丸の内発のラブソング専門局」をキャッチフレーズにしたデジタル局。 時を追うように、丸の内はビルが次々と建て替わり、銀行街からブティック街に。 地元企業とタッグを組み、おしゃれスポットへ変身させ、ラジオの潜在能力を実証した。 豊富な人脈と女性らしい視点、先見の明で続々とアイデアを生み出す新社長の次なる戦略とは--。 「トレンドや情報のすさまじい流れをいかに察知してフレキシブルに動くか。 社員は外へ向かわないと。 スピードアップして動けるコーチングが私の仕事かな」 今月1日付で編成局をコンテンツプランニング局、営業局をコンテンツビジネス局に改称。 これまで編成局所属だった番組プロデューサーが籍を置くコンテンツプロデュースチームを新設し、社長直轄のコンテンツ会議も立ち上げた。 既成概念から脱却するためだ。 「『オールナイトニッポン』『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』など伝統を継承しつつ、コンテンツの力をビジネスにどう生かしていくか。 そのためには人との出会いが大事です」 デジタル化の時代だからこそ「人間交差点が必要」と力説した新社長の言葉は、決してラジオ局だけに向けられたものではない。 3月の日本武道館公演が即日完売し、収録したDVDがすさまじい人気に。 「冠スポンサーの『ニチレイ』が就活の学生になぜ受けたか聞いたら、『オードリーをサポートしているから』と言われたそうです。 リスナーとスポンサーとパーソナリティーがつながっている。 それを実現させたオードリーはニッポン放送の宝ですね」と絶賛した。

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【芸能】三四郎はニッポン放送の「ファミリー」 オードリーに続く看板へ、飛躍の年/オピニオンD/デイリースポーツ online

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編成局長時代から知る記者が勝手に抱いているイメージだ。 「社長就任の内示を受けたとき、『え?』って感じで過呼吸になるくらい驚きましたよ」と言いながら、「私が必要とされたのか、時代の流れで女性初というクレジットに意味があったのか、自分では分かりません。 たまたまです」と笑い飛ばした。 ルーツを探るため、音楽の話を振ってみた。 「洋楽派で異常なるクイーンファン。 邦楽も聴いていましたよ。 (宇崎竜童がボーカルのロックバンド)ダウン・タウン・ブギウギ・バンドの追っかけでした」 当時の若者は音楽を聴くときはFM、トークを聴きたいときはAMが定番だった。 「私はAM派。 神奈川県に住んでいたのでTOKYO FMは(電波が)入らないし、J-WAVEなんてない時代。 ニッポン放送が一番クリアに聴けたから、小学高学年の頃から好きでした。 翌朝学校で話題になるので、試験勉強をしながら何時まで起きて聴けるか、でした」 パリに住んでいた高校時代、特に好きだったのが「宇崎竜童のオールナイトニッポン」。 「録音したテープを日本から送ってもらって聴いていました。 手紙でリクエストも出していましたね」。 当時からニッポン放送愛は深かった。 男女雇用機会均等法が制定された1985年に入社。 「会社に入って、好きだった人たちに会えるって幸せなこと。 宇崎さんはもちろん、松任谷由実さん、大瀧詠一さんもそうでした」。 親交を深めたユーミンには、編成局長だった2012年に「スペシャルウイーク編成局長」を依頼した。 「由実さんは、会社に通って会議にも出てくれた。 全ての番組へのコメントも頼みました」。 1週間限定の就任ながら、名刺も作った。 新聞のトップ記事を飾るほど話題になり、聴取率も上昇した。 「ラジオって、人間交差点みたいなメディア。 リスナーとの距離が近いから、パーソナリティーもラジオをたまらなく好きになるんです」 デジタルコンテンツ部長だった07年、東京・丸の内から発信するデジタルラジオ局「スォーノ・ドルチェ」(イタリア語で「甘い音楽」)を開局させた。 「テレビはデジタル化していたのに、ラジオはまだアナログで危機感があった。 また当時、丸の内仲通りには銀行が並んでいて、夜はシャッター通りでした」 OLの聖地に「丸の内発のラブソング専門局」をキャッチフレーズにしたデジタル局。 時を追うように、丸の内はビルが次々と建て替わり、銀行街からブティック街に。 地元企業とタッグを組み、おしゃれスポットへ変身させ、ラジオの潜在能力を実証した。 豊富な人脈と女性らしい視点、先見の明で続々とアイデアを生み出す新社長の次なる戦略とは--。 「トレンドや情報のすさまじい流れをいかに察知してフレキシブルに動くか。 社員は外へ向かわないと。 スピードアップして動けるコーチングが私の仕事かな」 今月1日付で編成局をコンテンツプランニング局、営業局をコンテンツビジネス局に改称。 これまで編成局所属だった番組プロデューサーが籍を置くコンテンツプロデュースチームを新設し、社長直轄のコンテンツ会議も立ち上げた。 既成概念から脱却するためだ。 「『オールナイトニッポン』『ラジオ・チャリティ・ミュージックソン』など伝統を継承しつつ、コンテンツの力をビジネスにどう生かしていくか。 そのためには人との出会いが大事です」 デジタル化の時代だからこそ「人間交差点が必要」と力説した新社長の言葉は、決してラジオ局だけに向けられたものではない。 3月の日本武道館公演が即日完売し、収録したDVDがすさまじい人気に。 「冠スポンサーの『ニチレイ』が就活の学生になぜ受けたか聞いたら、『オードリーをサポートしているから』と言われたそうです。 リスナーとスポンサーとパーソナリティーがつながっている。 それを実現させたオードリーはニッポン放送の宝ですね」と絶賛した。

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星野源ラジオの“ブロードウェイ”にニッポン放送社長が出演 ソロ10周年をオードリー若林が祝福(2020年6月24日)|ウーマンエキサイト(1/2)

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星野源photo:田中達晃/Pash(C)oricon ME inc. シンガー・ソングライターで俳優の星野源が、23日深夜放送のニッポン放送『星野源のオールナイトニッポン(ANN)』(毎週火曜深1:00)に出演。 ソロデビュー10周年当日を迎えたことを記念して、番組史上初めて、YouTube Liveとの同時生配信を行った。 おなじみのコーナー「星野ブロードウェイ」では、スタッフ総出で最高の盛り上がりを見せた。 星野が「映像なんですよ。 後戻りはできないんですよ」と念を押す中、ブロードウェイが開幕。 リスナーから寄せられた投稿をもとに作家・寺坂直毅氏の脚本で、番組スタッフが総出演するという超大作となった。 番組冒頭、星野は「10周年のスペシャル生放送でございます。 同時生配信しております。 みんな見てる?イエーイ」とにっこり。 「初めて映像を入れてラジオを生放送ということで…。 きょうは10周年ということで、本当にありがたい。 応援してくださるみなさん、いつも本当にありがとうございます。

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